わずか5年で圧倒的なインパクト



野茂のトルネード投法に背番号「11」はよく似合った

「11」は一般的に投手の背番号。巨人では“元祖”エースナンバーといえる存在であり、そのライバルの阪神では村山実の永久欠番となっていることは紹介したとおりだ。ただ、どんなエースの背中にあっても、近鉄の「11」ほど打者の目に焼きついた背番号はないのではないか。時代は昭和から平成となり、ドラフト1位で1990年に入団した野茂英雄の“トルネード投法”。まず、胸を張って背筋を伸ばし、両腕を高々と上げて、そこから左足を上げ、体を大きくひねって完全に打者へと背中を向ける。このとき、投手に焦点を絞り、視界がキュッと狭まっているようになっている打者の小さなスクリーンには、野茂の「11」がアップになっていたはずだ。

 さらに野茂はパワーをため、一気に爆発させるように投げ込む。繰り出される剛速球は150キロを超え、やや制球に難もあり、さらには背中を向けて投げてくるから、打者の恐怖は増幅されたことだろう。野茂は1年目から三振の山を築き、“ドクターK”の異名を取る。“トルネード投法”は球団の公募によるものだ。最終的にはリーグ最多の287奪三振。18勝で最多勝、防御率2.91で最優秀防御率にも輝き、近鉄は3位に終わったものの、野茂は新人王に加えてMVPにも輝いている。

 ただ、近鉄の「11」を背負った期間は短かった。以降4年連続で最多勝に最多奪三振も、94年オフに紆余曲折を経てメジャーへ。海の向こうでも“トルネード”は吹き荒れ、その活躍もあって、次々に前途ある選手たちがメジャーへ挑戦するようになっていった。ちなみに、野茂はメジャーでも99年にブリュワーズで、2001年にはレッドソックスで、05年にはデビルレイズで「11」を着けてが、いずれも1年のみでオフに移籍している。

 近鉄の「11」でも、野茂のインパクトは圧倒的ながら、その5年間は最長ではない。長く近鉄のエースナンバーは鈴木啓示の「1」だったこともあり、野茂までの「11」に並ぶ顔ぶれは渋い。

【近鉄】主な背番号11の選手
山田清三郎(1952〜58)
伊藤幸男(1963〜67)
谷宏明(1983〜88)
野茂英雄(1990〜94)
大塚晶文(1997〜2002)

本来は捕手ナンバー?


 まず、50年から51年まで着けた初代の室川光男、52年に2代目となった山田清三郎は、ともに控え捕手。巨人で別所毅彦がエースとして投げまくっていた時代に、近鉄の「11」は投手ですらなかったのだ。それでも山田は57年に94試合でマスクをかぶって正捕手に近づくも、58年オフに引退。この山田の7年間が系譜で最長だ。59年は、翌60年に「1」となる平井三郎コーチ。その60年に大毎(現在のロッテ)から移籍してきた江崎照雄が背負い、初めて投手の背番号になった。この60年に江崎はキャリア唯一の規定投球回到達。63年に江崎が中日へ移籍したことで2年目の伊藤幸男が継承して、投手によるリレーが始まる。

 だが、68年に伊藤は阪神へ移籍、後継者となった山田勝国は外野手だった。準レギュラーとして活躍した山田も72年にヤクルトへ移籍して、投手の芝池博明が1年だけ着けたことで投手に戻り、73年から3年間は市橋秀彦が着けたが、1試合の登板のみで日本ハムへ移籍。欠番を挟み、77年には阪神から移籍してきた“ガソリンタンク”米田哲也が背負うも、通算350勝を残してオフに引退した。


89年の1年だけ、吉井が背番号「11」を着けた

 78年の渡辺麿史を経て、79年に新人の香川正人が継承して無傷の5連勝も、その後は故障で登板なし。プロ8年目の82年に11勝を挙げた谷宏明が83年に後継者となったことで、ようやく存在感を見せ始める。谷は89年にヤクルトへ。その89年に吉井理人が1年だけ着けたことは近鉄の「21」を紹介した際に詳しい。これで野茂が1年目から「11」を背負うことになるわけだが、野茂のメジャー挑戦から2年間は欠番に。そんな「11」を、「野茂さんのパワーとか運を分けてもらおうという気持ちがあった」と球団に何度も頼み込み、97年に後継者となった新人が大塚晶文だった。


のちにメジャー・リーガーとなった大塚も近鉄で背番号「11」を着けた

 他チームの「11」に印象が引きずられがちだが、野茂の登場は近鉄の「11」では突然変異に近いといえそうだ。野茂に続いて吉井もヤクルトからメジャーに挑戦。2年目の98年からクローザーを任され、2001年の優勝にも貢献した大塚も紆余曲折があったが、03年の中日を経て、04年にメジャー移籍を果たしている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM