現役13年で通算237勝&830安打



阪急時代の野口

 戦後、1946年にペナントレースが再開されたプロ野球で、阪急(現在のオリックス)で復帰した野口二郎については、オリックスの「18」を紹介した際に少しだけ触れた。この連載では、これまでも落合博満の「6」や野村克也の「19」、張本勲の「10」など、他の追随を許さない成績を残しながらも、移籍もあって永久欠番になっていない選手たちも扱ってきているが、この野口も、ほぼ一貫して「18」を背負った名選手だ。

 現役生活13年で通算237勝139敗、防御率1.96。現在はエースナンバーとされる「18」だが、そんな概念すらなかった時代に「18」のエースとして投げ続けただけでなく、打者としても通算830安打を残している。いわゆる“二刀流”の選手だった。ただ、野口が「18」のエースとして語り継がれることが少ないのは、在籍したチームの事情にも関係があるだろう。戦前の1939年から活躍していた野口だったが、所属するチームは安定しなかった。移籍を繰り返したわけではない。所属したチームが合併や消滅を繰り返したのだ。とはいえ、エースナンバーがエースからエースへの継承によって成立するものだとしたら、この野口は間違いなく、背番号の世界には欠かすことができない存在だろう。

 野口は8人きょうだいの次男で、兄の明もプロ野球選手。のちに三男の昇は阪神、四男の渉もグレードリング(現在のソフトバンク)でプロ入りしていて、兄弟4人のプロ入りは巨人の「34」で永久欠番になっている金田正一の兄弟と、この野口兄弟だけだ。明は中日を初優勝、日本一に導いた捕手として知られるが、この兄も“二刀流”だった。プロ野球が始まった36年に東京セネタースへ入団。もともと捕手だったが、プロで投手に転じて、2シーズン制の37年には春リーグ戦で19勝を挙げて最多勝に輝いている。

 だが、その37年オフに応召。二郎は大学への進学を希望していたが、兵役の間も明には給料が払われていたこともあって断れず、39年に入団した。このとき、兄の応召で欠番となっていた「18」を継承。1年目からリーグ最多の69試合、459イニングに投げまくって33勝。最多勝には届かなかったが、兄から背番号とともにエースの座も継承した。同じ時期に阪神でもエースの若林忠志が「18」を着けていたが、42年に兼任監督となって「30」に変更してからも後継者が現れないまま戦局の悪化で44年に背番号は廃止になっている。野口兄弟がリレーした東京セネタースの「18」は、エースナンバーの系譜としてはプロ野球で最初のものだ。

兄弟で投打のタイトルもリレー


 二郎は40年から2年連続で最優秀防御率。42年には明も復帰して「8」の一塁手として活躍して、二郎は自己最多の40勝を挙げて最多勝に。プロ野球の頂点に輝くシーズン19完封もさることながら、メジャーにも例がない延長28回を完投したシーズンでもある。翌43年は無冠ながら、明が42打点で打点王となっている。一方で、東京セネタースは40年に翼と改称、41年に名古屋金鯱と合併して大洋となり、43年には西鉄となったものの、オフに解散。二郎も応召した。ちなみに、戦後のセネタース(現在の日本ハム)、大洋(同じくDeNA)、西鉄(西武)とは、いずれも別のチームだ。

【野口二郎】背番号の変遷
#18(東京セネタース・翼1939〜40)
#18(大洋・西鉄1941〜43)
#17(阪急1946)
#18(阪急1946〜53)

 44年は阪急でプレーしていた明は、戦後も変わらず阪急に在籍した。二郎は兵役で中国戦線から激戦地のフィリピンへ向かう際、野球の選手だったことを知っていた上官から1人だけ戻るように言われ、帰国。その後、二郎のいた部隊は全滅したという。そして明のいる阪急で復帰。このとき一時「17」を着けるも、すぐ「18」にも“復帰”する。その46年は33試合の登板で13勝、リーグ5位の防御率2.67に加え、野手としても合わせて96試合の出場で規定打数にも到達、リーグ9位の打率.298をマークしている。

 その後も引退まで「18」を背負い続けた二郎だったが、戦後は捕手がほとんどとなった明が「18」だったのは最初の2年間だけ。前述した「8」を皮切りに、阪急で戦後に「4」、中日では「6」でプレーして、55年から2年間は兼任監督として「30」を着けている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM