「18」への登竜門としても



巨人で15年間、「21」を背負った加藤

 2021年にDeNAからFAで巨人へ移籍した井納翔一が継承した「21」は、エースナンバーの「18」に対し、左のエースナンバーといわれた時期が長かった。ただ、井納は右腕だ。実際、21世紀に入ってから「21」は井納を含めて8人の選手がリレーしているが、左腕は2人だけ。07年に8年目の高橋尚成が「17」から変更して09年オフにメジャーへ移籍するまで背負い、17年には日本ハムから移籍してきた吉川光夫が継承した。吉川の移籍で「21」がトレードマークの岩隈久志がメジャーから巨人で復帰してリレーするも、2年で引退。近年は他のチームで実績のある投手の系譜となりつつある。

 また、決して派手ではないものの、右腕の存在感も申し分ない。最長は1976年から90年まで15年間、第一線で投げ続けた右腕の加藤初。西鉄(現在の西武)でプロ1年目の72年に17勝で新人王に。その後も主力としてチームを支えたが、巨人でも移籍1年目からノーヒットノーランを含む15勝8セーブ、リーグトップの勝率.789で長嶋茂雄監督の初優勝に大きく貢献。その後も浮き沈みこそあれ、モデルチェンジを繰り返しながら速球派を貫き、40歳まで現役を続けた。ポーカーフェイスで”鉄仮面”の異名でも知られる。


堀内は1年目だけ、「21」を背負った

 21世紀には2003年に新人の木佐貫洋が背負い、1年目から10勝。「21」は4年間だけだったが、移籍したオリックス、日本ハムでも結果を残している。新人では20世紀に藤田元司が1957年に、堀内恒夫が66年に1年だけ「21」を着けて、すぐ「18」に。「21」が“エースナンバーの登竜門”といわれるのは、このためだ。藤田の前に5年間「21」だった入谷正典も右腕だ。現役生活は短かったが、2年目の53年に11勝を挙げたV戦士の1人。

 右腕では20世紀から21世紀にかけて5年間、韓国から来たチョ・ソンミンも着けていたが、戦後の47年に「26」から変更した川崎徳次もエース格の右腕。戦前から南海(現在のソフトバンク)で「21」のエースとして活躍していた川崎は、他のチームで実績のある投手のパイオニア的な存在だ。とはいえ、巨人の長い歴史で左腕がインパクトを残しているのも事実。「21」を左腕エースの印象にしたのは、V9時代にリーグ優勝、日本シリーズで4度ずつの計8度、胴上げ投手となった高橋一三だろう。V9のエースといわれるのは堀内だが、高橋も負けていない。

初代はプロ野球の功労者



巨人V9時代の左腕エースだった高橋一も「21」を背負った

 高橋はV9元年の65年に入団。最初は「46」だったが、67年に堀内から「21」を継承すると、69年には15連勝を含む22勝で最多勝、沢村賞に輝き、初めて胴上げ投手も経験する。V9を決めた73年にはチーム最多の23勝、リーグ最多の238奪三振で2度目の沢村賞。連覇が途切れた74年に腰痛もあって失速、翌75年オフには日本ハムへ移籍したこともあり、V9を象徴する存在だった。さらに加藤を挟み、91年に宮本和知が継承したことで、左のエースナンバーという印象は強固になる。


現在、投手コーチを務める宮本も現役時代は「21」で活躍

 宮本も89年のリーグ優勝、日本シリーズ、90年のリーグ優勝と、3度の胴上げ投手を経験。まだ「13」だった時期だが、「21」でもリリーフや谷間の先発として97年まで第一線で投げ続けた。ただ、左腕エースの元祖といえるのは藤田と堀内の間にいる伊藤芳明だろう。59年に入団して「21」を背負った伊藤は在籍7年で移籍したが、61年に13勝でリーグトップの勝率.684、63年には自己最多の19勝を挙げて沢村賞に輝いている。

 一方、2015年の1年だけ着けた助っ人のフランシスコは5試合の出場で退団したが、「21」の系譜では野手の存在も見逃せない。20世紀で最後の野手は2リーグ制が始まって2年間「21」だった久保木清は慶大で“最後の早慶戦”にも出場した外野手だ。戦後の1946年に着けた丸木迪は一軍出場がなかったが、プロ野球が再開して最初に着けたのは巨人の「1」でも紹介した林清一(清光)だった。2代目の清水善秋は捕手。そして初代は36年から38年までの三原修だ。二塁手の三原は兵役での負傷で選手としての活躍は短かったが、戦後は巨人、2リーグ制では西鉄の監督として黄金時代を築く。巨人だけでなく、プロ野球の功労者だ。

【巨人】主な背番号21の選手
三原修(1936〜38)
高橋一三(1967〜75)
加藤初(1976〜90)
宮本和知(1991〜97)
井納翔一(2021〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM