国鉄と金田とともに



国鉄で一貫して「34」を背負った金田

 ヤクルトの背番号は、これまで後継者を待つ捕手の「27」、受け継がれる主軸の「1」と、「1」への登竜門といえる「23」を紹介している。いずれもチームが国鉄だった時代にも名選手がいた系譜ではあるが、どちらかといえばヤクルトとして再出発してからのインパクトのほうが大きい。国鉄は優勝とは無縁のままサンケイとなり、そのサンケイも長続きしなかったから、物語が過熱するのはヤクルト時代に入ってからというのもやむを得ないのかもしれないが、一方で、国鉄のほうがインパクトで圧倒している背番号もある。その最たるものは、やはり「34」だろう。巨人の永久欠番「34」で紹介した金田正一の象徴だ。

 国鉄はプロ野球が2リーグ制となった1950年に参加したチームだが、そのシーズン途中に高校を2年生で中退して入団したのが金田だった。背番号は「34」。つまり、ヤクルトの系譜で最初の、そして巨人では最後の「34」は金田ということになる。まだ少年といえる年齢の金田だったが、1年目から頭角を現し、2年目にはエースに。戦力に欠けるチームで先発、救援と投げまくって、ノーヒットノーランを含む22勝を挙げるも、リーグ最多の21敗を喫している。金田が他の投手から勝ち星を奪った、という言説もあるが、勝てそうな試合は必ず勝たねばならず、そのためには金田を投入しなければならないチーム事情があったことも事実だ。

 過去の連載と重複するが、あらためて金田のキャリアを駆け足で振り返ってみると、その2年目の51年から14年連続で20勝をクリア。57年には完全試合を含む28勝で最多勝、翌58年には自己最多の31勝を挙げて2年連続で最多勝に。この2年間は絶頂期で、2年連続で最優秀防御率にも輝いている。63年にも30勝で3度目の最多勝に。国鉄ラストイヤーとなる64年までリーグ最多奪三振は10度を数え、62年には通算奪三振で世界の頂点に立った。だが、国鉄は親会社の経営が悪化したことで、プロ野球への進出を目論んでいたフジ・サンケイグループと業務提携。64年には林義一監督の采配をめぐって国鉄とサンケイが対立する事態となり、これが金田が巨人へ移籍する遠因となる。

 金田の国鉄に対する思い入れは強く、国鉄は経営から撤退して、金田もチームを去った。サンケイには金田を排除する動きがあったともされ、金田の移籍で「34」は1年だけ欠番となったものの、その後は金田とは対照的な、“逆張り”をするかのような系譜となっていく。

21世紀は“助っ投”リレー



ドラフト1位でヤクルトに入団し、新人年に開幕投手となった高野も「34」を背負った

 66年に南海(現在のソフトバンク)から移籍してきて後継者となった東条文博は古巣では「68」だった内野手で、サンケイへの移籍で背番号の数字が半分に。2年で「38」に変更して、70年には盗塁王に輝いている。68年に「34」の3代目となった4年目の福富邦夫は金田と同じサウスポーではあったものの、外野手。その68年から2年連続で打撃十傑に名を連ねた。チームがヤクルトとなると、左腕のリレーが始まる。だが、71年に4代目となった三橋豊夫は1試合の登板、三橋の引退で77年に継承した黒坂幸夫も通算50試合の登板でゼロ勝に終わった。

 黒坂の引退で1年の欠番を経て84年に新人で右腕の高野光が「34」を継承、いきなり開幕投手を務めたことで流れが変わる。高野は1年目から10勝、3年目の86年には自己最多の12勝。これが成功例となったのか、“排除”ではない“逆張り”の系譜となっていく。高野の移籍で94年は助っ人のクラークで、翌95年は高野と同じく新人で右腕の北川哲也が継承したが、芽が出ないまま5年で引退した。

 1年の欠番を挟んで21世紀は“助っ投”の系譜に。2009年から2年間は新人で左腕の八木亮祐が着けたのを除いて、ニューマン、ノーヒットノーランもあったガトームソンが2年ずつ、ベバリン、シコースキーとリオスが1年ずつ、11年に継承したバーネットは5年間「34」を背負った。16年のデイビーズ、17年のオーレンドルフを経て、18年に後継者となった山田大樹は古巣のソフトバンクでも「34」だった左腕だが、20年オフに引退。21年は欠番になるところだったがキャンプ後、巨人からトレード移籍した左腕・田口麗斗が「34」を背負うことになり、新たな物語が再開されることになった。

【ヤクルト】主な背番号34の選手
金田正一(1950〜64)
東条文博(1966〜67)
福富邦夫(1968〜70)
高野光(1984〜93)
バーネット(2011〜16)

文=犬企画マンホール 写真=BBM