デジタルの暴走?



阪神へ移籍1年目の93年、背番号を「2」から「02」に変更した松永

 プロ野球で初めて広島で「0」が登場したのが1983年。プロ4年目の長嶋清幸が背負ったもので、その前年にメジャーで登場したばかりの背番号を早くも“輸入”した形だったが、当時は近年のように簡単にはメジャーの情報が手に入らなかった時代であり、多くのファンに独特な違和感と奇妙な期待感をもって受け入れられた。阪神で「00」が登場したのは、その5年後、88年のシーズン途中だ。“猛虎フィーバー”の象徴ともいえるバースが退団。これを受けて獲得したジョーンズが着けて閉幕までプレーしたものの、結果を残せずオフに解雇となり、「00」の歴史は途切れかける。

 とはいえ、「0」は順調に広島から他のチームへと普及していったように、「00」を着ける選手もポツポツと現れるように。そんな92年、阪神で亀山努が「00」の後継者となり、センセーショナルな活躍。これで「00」に新たな価値が創出された。この時期は、従来は数えられる数字のみしか存在しなかった背番号の世界に、「0」「00」といった数えられない数字が浸透していった過渡期といえるだろう。思えば、当時はデジタル時計が従来のアナログ時計を駆逐するかの勢いで一般的になっていった時期でもある。あと少しデジタル時代の到来が遅ければ、「0」はともかく、「00」の登場も遅かったかもしれない。だが、「0」を並べて2ケタ(?)にした「00」の存在は、背番号の物語を思わぬ方向へと導いていくことになる。

 亀山がブレークした翌93年の阪神で、やはりシーズン途中に「02」なる背番号が登場する。着けたのは移籍1年目の松永浩美だった。松永は小倉工高を中退して78年に阪急(現在のオリックス)へ入団、1年は練習生としてチームに帯同するのみだったが、翌79年に支配下となった苦労人。最初は「48」で、82年に正三塁手の座をつかむと、翌83年には「8」に。コツコツ当てて足を生かすタイプが多かったスイッチヒッターだが、松永は日本人の選手としては珍しく長打のあるスイッチとして異彩を放つ。その後も“ポスト黄金時代”の阪急、そして新生オリックスで打線の中軸を担うも、93年に投手の野田浩司とのトレードで阪神へ移籍。野田は移籍1年目から「21」で17勝を挙げて最多勝に輝いた一方で、「2」を背負った松永には故障が続いた。

 この阪神の「2」は1ケタの背番号ながら、故障で引退する選手が多い系譜でもあり、先代の高橋慶彦も全盛期の広島では「2」で活躍したものの、阪神では故障もあって前年オフに引退していた。松永は6月29日に背番号を変更。それが前代未聞、空前絶後(?)の「02」だ。ただ、縁起が悪いから背番号を変更したというだけではない。もちろん、単に奇をてらって「02」にしたわけでもなかった。

日本ハムのジェームス・ボンド?


 いかにプロといえど、野球は運を敵に回して成功できるスポーツではない。プロ野球選手は古今東西、さまざまな形でゲンをかつぎ、背番号も、野村克也が指導者になっても「足して10」の背番号にこだわったように、開運のツールとなってきた。松永は悪運を回避しようとしただけでなく、「自分をオニ(02)のように強くする」という意味で、「02」を背負ったのだという。だが、当時を知る阪神ファンにとっては、「02」には苦い思い出があるかもしれない。メジャーにもない3試合連続先頭打者本塁打など存在感を放った松永だったが、最終的には80試合の出場にとどまっただけでなく、オフには導入されたばかりのFA制度を使い「02」(オニ)のように(?)阪神を去ってダイエー(現在のソフトバンク)へ移籍。阪神の「02」は、松永が最初で最後となり、松永も新天地では「3」を背負い、97年までプレーを続けた。

 ただ、この93年に異色の背番号を着けようとしたのは松永が最初ではない。83年に日本ハムで「28」を着けて新人王になり、大洋(現在のDeNA)を経て、その93年に日本ハムへ復帰した二村忠美が希望した背番号は「007」だった。映画フリークならピンとくるはずだ。「ジェームス・ボンドみたいに危険な雰囲気がある選手になりたい」と二村。だが、さすがに3ケタは当時としては「危険」過ぎたのか、パ・リーグに許可されず、二村は日本ハムの初代「00」となって、そのオフに現役を引退している。数字だけのことであれば「00」がOKなら「02」も「007」もNGではない気もするが、たかが数字、されど背番号なのだろう。

文=犬企画マンホール 写真=BBM