日本ハム4代目から



日本ハムで80年から90年まで背番号「8」を背負った島田

 2018年から3年連続で打率3割をクリア、19年から2年連続で最高出塁率に輝いて、パ・リーグを代表する好打者に成長した日本ハムの近藤健介。この近藤が16年から背負うのが「8」だ。古くからチームを代表する好打者が着けるケースが多いナンバーで、その系譜に近藤も名を連ねることになった。ただ、そこは独自路線の日本ハム。起源のセネタースから東急、急映、東映、日拓と、「8」は1ケタの背番号にもかかわらず、基本的には短期間リレーで、この傾向は1974年に日本ハムとなってからも簡単には変わらなかった。

 日本ハムで初めて2年を超えて着けたのは、77年に広島から移籍してきて4代目となったスーパーサブの久保俊巳だ。その久保も3年で引退。ほかのチームで「8」が主力として活躍していた一方で、ネガティブとまでは言わないまでも、日本ハムでは決してポジティブな印象のある背番号ではなかったのだ。

 これが一変したのが80年。広島の山本浩二や巨人の原辰徳など、「8」は80年代に輝きを放ったナンバーでもあるが、日本ハムで80年に「8」を背負ったのが4年目の島田誠だ。身長168センチとプロ野球選手としては小柄だったが、ドラフト外で77年に入団すると、俊足を生かして1年目から2ケタ盗塁。これが3年連続となった79年は、初めて規定打席に到達して自己最多の自己最多の55盗塁を記録、「24」から変更した。それでも盗塁王になれなかったのは、阪急(現在のオリックス)に福本豊が健在だったため。「8」となってからも5年連続で30盗塁をクリアしたものの、13年連続の福本に代わって近鉄の大石大二郎が盗塁王となり、島田は最後まで盗塁王とは無縁で終わった。80年代の「8」は島田1人だ。


“ビッグバン打線”をけん引した片岡も背番号「8」だった

 島田が91年にダイエー(現在のソフトバンク)へ移籍すると、代わって助っ人のベイスが「8」を着けるも、2年で帰国。93年に「38」から変更したのが2年目の片岡篤史だった。阪神の「8」でも紹介したが、片岡の「8」は日本ハムがルーツ。“ビッグバン打線”の主軸を担い、98年には最高出塁率にも輝いている。片岡が阪神へ移籍すると、2002年は1年だけ欠番に。翌03年に後継者となったのが金子誠だ。1994年に入団して「30」を着けた金子は、3年目の96年に正二塁手の座を確保して新人王に。「8」に変更したのはプロ10年目のことだった。正遊撃手としてもチームを支えた金子は14年までプレー。現役生活の後半を「8」で過ごした金子は、前身チームの時代も含めて「8」の系譜で最長だ。というより、そもそも2年を超えて「8」を着けたというだけで珍しいことだった。

捕手だった近藤



東映時代、“ケンカ八郎”の異名を取った山本が「8」を背負った

 日本ハムがセネタースとしてプロ野球に参加したのは、戦後いち早く復活の号砲を打ち鳴らした1945年11月の東西対抗戦。ペナントレースに加わったのは翌46年で、そこから日拓の73年までの最長記録は、わずか7年だった。56年に東映へ入団して、1年目から「8」を背負ったのが、名前にも「8」がつく山本八郎。ふだんは礼儀正しい男だったが、ひとたびユニフォームに袖を通すと当今の権化に変身、当時の本拠地球場から“駒沢の暴れん坊”と呼ばれた東映ナインにあって、山本の“暴れっぷり”は群を抜き、暴力行為で2度の無期限出場停止処分を受けて“ケンカ八郎”の異名を取った。処分は2度とも解除され、山本も63年に近鉄へ移籍している。行き過ぎもあった山本だが、闘志あふれるプレーが人気を集めたのも事実。61年には68打点をマークするなど、勝負強い打撃も魅力だった。ただ、この数字は打撃を生かすために一塁手に転向してからのもの。本職は捕手だった。


現在は球界屈指の好打者・近藤が背番号「8」を着けている

 半世紀を超える時が流れ、金子の後に西川遥輝の1年を挟んで、「54」からの変更でプロ5年目に「8」の捕手となったのが近藤だ。打撃を生かすために外野手、指名打者としても起用され、19年からは登録も外野手に。本拠地も後楽園、東京ドームなどを経て北海道へと移転して、“暴れん坊”の時代も遠い昔となったが、前身チームにいた強打の捕手と、日本ハムとなってからの好打者の系譜。この双方を近藤は継承したといえそうだ。

【日本ハム】主な背番号8の選手
山本八郎(1956〜62)
島田誠(1980〜90)
片岡篤史(1993〜2001)
金子誠(2003〜14)
近藤健介(2016〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM