選手、監督で16年目に突入



ヤクルトで背番号「22」といえば現監督の高津の名前が思い浮かぶ

 2020年に就任した高津臣吾監督が背負うヤクルトの「22」は、その現役時代を知るファンにとっては言うまでもないことだが、ヤクルトで迎えたプロ1年目からメジャー挑戦まで、そしてヤクルトでのプロ野球ラストイヤーの計14年間、クローザーとして一時代を築いた高津のトレードマークだった背番号だ。同時代には横浜(現在のDeNA)の“大魔神”佐々木主浩も「22」で君臨しており、「22」をクローザーを象徴する背番号として定着させたのは佐々木、そして高津だった。

 高津はドラフト3位で1991年に入団。リリーフに回った93年に20セーブ、西武との日本シリーズでも3セーブをマークして、リーグ連覇、日本一に貢献した。変則的なサイドスローからの3種類のシンカー、130キロ台のストレートで打者を翻弄して、4度目の最優秀救援投手に輝いた2003年を最後にメジャーへ。06年に復帰したときには、同じくメジャーから復帰した左腕の石井一久が「16」、これで「16」だった高井雄平が「22」となり、高津は「11」に。あらためて翌07年に高津が「22」を背負うも、そのオフ、ふたたび海を渡った。

 最終的にプロ野球で通算286セーブ、日米通算313セーブ。セーブポイントが04年いっぱいで廃止されたため、高津の通算289セーブポイントはプロ野球の頂点に輝き続ける数字だ。ちなみに、高津のメジャーからの復帰により1年で「22」から「41」に変更、結果的に石井、高津と“ID野球”を彩った2投手の背番号を渡り歩くことになった高井だが、のち野手に転向、登録名も「雄平」として大成して、現在に至る。


08年からは高校生ドラフト1巡目右腕の増渕が「22」を着けた

 高津がヤクルトを去ると、08年に後継者となったのがプロ2年目の増渕竜義で、10年にはセットアッパーとして自己最多の57試合に登板して20ホールドをマークするなど、リリーフで結果を残したが、14年のペナントレースが開幕するや否や日本ハムへ移籍。翌15年に「22」はドラフト1位で入団した左腕の竹下真吾が継承するも3年で引退、18年にはドラフト3位で入団した右腕の蔵本治孝が後継者となったが、高津が一軍の監督として「22」を背負うことになったため「99」に変更した。高津は監督としての期間も加えれば、この21年で「22」16年目を迎える。

 高津がプロ野球を去ってからも阪神で藤川球児が着けるなど、リリーバーの背番号として輝き続けた「22」だが、もともとは捕手ナンバー。ヤクルトでも高津の前は左腕の忰田幸也が3年、その前には右腕の黒田真二が5年と投手がリレーしていたが、ヤクルトの前身、国鉄では、ほぼ完璧な捕手ナンバーだった。

左腕エースが投手の第1号


 国鉄がプロ野球に参加した1950年は一時的に藤田宗一が着けたという資料もある。藤田は35歳で入団した外野手で、53年は二軍監督を兼任、翌54年から2年間は一軍の監督として指揮を執った。実質的な初代は小川利雄で3年間、53年から木下雅弘が4年間、57年からは岩崎哲郎が3年間、60年からは東郷幸が3年間とリレーしているが、いずれも捕手だ。63年に継承した別部捷夫は、2年目に正右翼手として13本塁打も、捕手に転向して69試合でマスクをかぶった68年に「22」から「26」に変更した異色の存在だ。この別部から次の佐々木剛まで外野手がリレー。そして、佐々木が72年に東映へ移籍すると、「22」の物語が一変する。


ヤクルトの「22」を“投手番号”とした左腕の安田

「ヤクルトでは投手番号でもなんでもなかった。ドラフト6位と下位の指名で、これを着けろと。期待されてなかったということです」と言いながらも、「僕から投手番号になったんですよ」と胸を張るのが左腕の安田猛だ。1年目の72年から即戦力となって、リリーフを中心に7勝、翌73年に初の2ケタ10勝を挙げて、2年連続で最優秀防御率。75年から4年連続2ケタ勝利、開幕投手を任された78年には15勝で初優勝、日本一の原動力となる。

 スローボールで幻惑しつつ真っ向勝負の“本格派”。しっかり内角を攻めながら死球が少ないのも特徴で、巨人の王貞治が苦手としていたことでも知られる。安田の引退で82年は欠番。黒田、忰田を経て後継者となったのが高津だった。

【ヤクルト】主な背番号22の選手
別部捷夫(1963〜67)
安田猛(1972〜81)
高津臣吾(1991〜2003、07、20〜)
高井雄平(2006)
増渕竜義(2008〜14)

文=犬企画マンホール 写真=BBM