伝家の宝刀はスライダー



巨人で背番号「17」を着け、94年に完全試合を達成した槙原

 言うまでもなく、エースナンバーとはチームのエースとされる投手が着け、次のエースへと継承される背番号のこと。ある背番号で投手がエースとなり、その印象が背番号に残され、エースと認められた投手が後継者となる。これを長い歴史で重ねていくことで背番号が最上級ともいえる栄誉を獲得するものだ。ただ、必ずしもエースがチームで最多勝となるとも限らず、好調も不調もあるわけで、少しくらい精彩を欠いたところで“剥奪”するわけにもいかない。エースナンバーを着けた投手よりもエースらしい活躍をする投手が登場することは実に多いことなのだ。

 と、こんなことを考えさせられるのが巨人の「17」。エースナンバーとされるのは続く「18」だが、この「17」の投手たちが残したインパクトは、しばしば「18」の投手を超える。2014年に広島から移籍してきた大竹寛が背負って8年目に突入しているが、系譜に並ぶ投手たちは伝説的ともいえるものだ。

 1990年代を知るファンにとって、巨人の「17」といえば槙原寛己だろう。「54」で1983年に新人王に輝き、カムストックから87年に「17」を継承すると、94年には完全試合を達成。2001年まで20年もの長きにわたって巨人を支えた右腕だ。槙原の完全試合は平成で唯一、現時点では最後の快挙だが、巨人の「17」による完全試合は槙原が第1号ではない。というより、プロ野球で最初の完全試合を達成したのも巨人の「17」、右腕の藤本英雄だった。戦時中からプレーしていた藤本は、戦後の紆余曲折を経て中日から復帰した48年から「17」に。快挙は2リーグ制1年目の50年のことだった。高速スライダーを武器にした槙原の一方、スライダーのパイオニアといわれるのが藤本。55年までプレーした藤本は通算200勝ちょうどで引退、翌56年だけは指導者としても「17」を着けている。


50年、巨人でプロ野球史上初の完全試合を達成した藤本も背番号「17」だった

 この2人だけでも物語が完結してしまいそうだが、「18」に比べて歴代の人数が多いのも「17」の特徴。「17」は一般的に“実力派”の系譜と表現されるが、これは巨人の場合も同様だ。21世紀ではプロ3年目に槙原から継承して5年間「17」でプレーした左腕も高橋尚成、「93」で頭角を現し、「17」2年目の2010年に13勝を挙げた右腕の東野峻も印象に残る。

 20世紀には「44」「32」と背番号を小さくして56年途中に「17」となった右腕で2ケタ勝利4度の安原達佳、槙原と同じ「54」からプロ5年目の69年に「17」となり、73年に18勝を挙げてV9の起爆剤となった右腕の倉田誠もいた。1リーグ時代には、のちに中日などの監督としても名を残した近藤貞雄も2年間だけ背負っている。ただ、その前後は“移籍組”のベテラン投手たちの系譜という印象もあり、これも歴代の人数が多くなっている一因だろう。王道のド真ん中にいるような「18」に比べれば“冷遇”にも見える「17」。だが、その起源にさかのぼると、伝説の迫力は「18」をしのぐ。

プロ野球のスタート、その前後に



巨人の初代背番号「17」は沢村だった

 プロ野球よりも長い歴史を誇る巨人。前身の大日本東京野球倶楽部で1935年に「17」を背負っていたのが沢村栄治だった。プロ野球が始まった翌36年、沢村が戦後にプロ野球で最初の永久欠番となる「14」に転じると、後継者となったのが35年は「18」だったスタルヒンだ。快速球で伝説となっている沢村は兵役の負傷もあって球速に陰りが見えたが、その穴を埋めて余りある剛速球を投げ込んだのがスタルヒン。39年にはプロ野球記録の42勝を挙げ、41年に登録名は「須田博」に変更させられたが、44年に背番号が廃止されるまで一貫して「17」を背負い、戦後は他のチームでプレーを続けて通算303勝、プロ野球記録の通算83完封を残した、やはり伝説的な投手だ。

 沢村やスタルヒンの時代はプロ野球そのものが消滅する可能性すらあった時代で、エースナンバーという視点でプロ野球を楽しむ余裕もなかったが、これが戦後の継承だったとしたら、確実にエースナンバーと認識されていたはずだ。ちなみに、19年の現役生活を送ったスタルヒンは、48年だけは金星で「18」に“復帰”しているが、ほぼ一貫して「17」で投げ続けている。

【巨人】主な背番号17の選手
スタルヒン(1936〜43)
藤本英雄(1948〜56)
槙原寛己(1987〜2001)
高橋尚成(2002〜06)
大竹寛(2014〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM