巨人と縁が深い系譜?



巨人から近鉄へ移籍し、背番号「17」を着けた石毛

 栄光の背番号にもかかわらず歴代の人数が多い巨人の「17」については紹介したが、対照的に人数が少なく、“長寿”の系譜ともいえそうなのが近鉄の「17」だ。プロ野球よりも長い歴史を誇る巨人に対して、2リーグ制から参加して2004年に歴史の幕を下ろした近鉄。歴史の長さでは四半世紀ほどの開きがあるとはいえ、歴代わずか9人というのは、やはり少ない。しかも、2003年に近鉄4年目の門倉健が1年だけ着けて横浜(現在のDeNA)へ移籍、香月良太が継承したところで近鉄の歴史が終わったことで一気に2人が増えている。以前、近鉄で歴代の「1」から「6」の選手を高校野球と同じ背番号でダイヤモンドに並べられることにも触れたが、「17」は最後の最後で、かろうじてチームの頭数がそろった形だ。近鉄は「16」も歴代の人数が少なく、“少数精鋭”の系譜が並んでいることになる。

 巨人とは対照的な系譜といえる近鉄の「17」だが、終盤には巨人と縁がある投手たちが並んだ。結果的に近鉄で最後の「17」となった右腕の香月良太は、“移籍”したオリックスでも「17」を背負い、巨人でも移籍1年目だけ「17」だったが、大竹寛の加入で「13」に転じて、3年間プレーして引退した。その前任の門倉は対照的に着けた背番号の多い右腕で、プロ野球では通算4チームでプレー、中日から2チーム目の近鉄へ移籍した2000年に着けたのは「23」。「17」は自身3個目の背番号で、横浜を経て巨人へ移籍して、09年に海を渡った。

 その前の石毛博史は逆に巨人から近鉄へ移籍してきた右腕で、近鉄が2チーム目。門倉と同様に着けた背番号は多く、巨人で「93」から「59」、「24」と背番号を小さくしていき、1997年に移籍した近鉄の「17」が最小。03年に移籍した阪神で「48」を着けて、3年で引退している。石毛の前に着けていた右腕の中川隆治は近鉄ひと筋。希望枠で95年に入団して「17」を着けるも伸び悩み、2年で「51」に。最後まで勝ち星に恵まれず、これは近鉄の「17」では貴重な存在(?)だ。ドラフト1位で80年に入団、中川と同じくプロ1年目から「17」を背負うも、その1年目に挙げたプロ初勝利が最後の勝ち星となってしまったのが右腕の藤原保行だ。藤原も近鉄ひと筋だったが、85年に「53」となり、87年オフに現役を引退している。

 藤原から85年に「17」を継承したのが佐々木修。やはりドラフト1位で入団した右腕で、昭和から平成にかけての近鉄を知るファンにとって、近鉄の「17」といえば真っ先に佐々木を思い出す、という向きも多いだろう。当時は西武の黄金時代。そのライバルとして立ちはだかった近鉄を、佐々木は支えていく。

近鉄の初勝利も「17」のサイドハンド



背番号「17」を着け、91年には10勝をマークした佐々木

 2ケタ勝利は1度のみだったが、佐々木はサイドハンドからの変化球を武器に1年目から初登板初完封、2年目には試合は引き分けながら完投で西武の連続試合本塁打を35試合でストップさせる快投を見せた。91年に初の2ケタ10勝を挙げたのを最後に故障で登板機会を減らしていったが、近鉄ひと筋で94年オフに引退している。佐々木の10年は「17」の系譜では2番目の長さだったが、近鉄で最初に「17」を背負ったのも右のサイドハンドだった。

 50年の開幕2戦目に初先発初勝利を挙げた沢藤光郎。これがチーム初勝利で試合のあった藤井寺球場では雪が舞っていたという。沢藤は初代エースといえる右腕で、まだ戦力が整っていない近鉄にあって1年目は18勝19敗も、2年目から2年連続でリーグ最多の黒星。それでも4年目からは2年連続2ケタ勝利と名誉を挽回、57年いっぱいで引退してからもコーチやスコアラーとしてチームを支え続けた功労者だった。

 翌58年に継承した右腕の伊藤四郎は近鉄が3チーム目。移籍2年目に「66」から変更も、その翌59年オフに南海(現在のソフトバンク)へ移籍している。その翌60年、3代目となった右腕は近鉄ひと筋20年、一貫して「17」を背負い続けた板東里視だ。2ケタ勝利は2度のみながら、先発、救援と役割を問わず通算579試合に投げまくり、79年オフに初のリーグ優勝を見届けて引退している。

【近鉄】主な背番号17の選手
沢藤光郎(1950〜57)
板東里視(1960〜79)
藤原保行(1980〜84)
佐々木修(1985〜94)
石毛博史(1997〜2002)

文=犬企画マンホール 写真=BBM