投手の第1号も大騒動の末に



ドラフト外で巨人に入団し、背番号「29」を着けた鹿取

「僕が先に入って『29』、あの“事件”の後で江川(卓)さんが来て『30』だったんです。希望なんてない。『これだ!』って言われて、『はい』だけ(笑)。最初に思ったのは、この番号の年齢までプロでやりたいって。当時は投手が30歳くらいでやめるのは珍しくなかったから」

 こう語るのは、巨人の「29」を系譜で最長の11年にわたって背負った鹿取義隆だ。巨人は1978年、ドラフトをボイコット。いわゆる“江川事件”のためだ。このときドラフト外で入団したのが鹿取。江川の入団は紆余曲折があったことで鹿取の後となり、80年代に投げまくったリリーバーと、一時代を築いたエースが背番号で並ぶことになった。鹿取は王貞治監督が指揮を執った84年から88年までの5年間で275試合に登板。すべて救援のマウンドだった。酷使を意味する“鹿取(かと)られる”という造語が流行語になったことでも、そのフル回転ぶりが分かる。

 鹿取の背負った巨人の「29」は、基本的に投手ナンバー。やはり“引き抜き事件”と呼ばれる大騒動を経て南海(現在のソフトバンク)から移籍してきた別所毅彦が49年の1年だけ着けたのが投手の第1号だ。2リーグ制が始まった翌50年に別所が「11」に転じると、「29」を継承したのが左腕の松田清だった。その翌51年に松田は破竹の19連勝を含む23勝。防御率2.02で最優秀防御率、新人王に。続く52年までの20連勝は57年に西鉄(現在の西武)の稲尾和久が並び、2013年に楽天の田中将大が更新するまで長くプロ野球記録だった。

 松田は恩師の宇野光雄が国鉄(現在のヤクルト)の監督に就任すると、1956年に国鉄へ。1年の欠番を挟んで後継者となったのが3年目で右腕の木戸美摸だった。木戸は「56」から「29」に転じると、いきなり自己最多の17勝。勝率.708は巨人の「29」としては松田に続く2人目の勝率トップだった。木戸は61年オフに現役を引退。その後も種部儀康、吉村典男と右腕がリレーした。

 95年には逆指名で入団して2年目となる右腕の三野勝大が97年まで背負っているが、2001年、21世紀で最初の「29」は新人で右腕の上野裕平。翌02年に中日から移籍してきた左腕の前田幸長が継承したが、前田は中日でも「29」を着けていた。20世紀にも1993年に助っ人で外野手のバーフィールドが着けているが、2008年に「29」を背負ったグライシンガーはヤクルトでも「29」だった右腕で、移籍1年目から自己最多の17勝を挙げて、2チームにまたがって2年連続で最多勝に輝いている。

 その後も真田裕貴、福田聡志、鍬原拓也と3人の右腕がリレーしたが、20年に後継者となったのは内野手の吉川尚輝だ。投手たちが結果を残してきた「29」だが、別所までは野手がリレーしていたナンバー。現役の吉川が継承したのは“原点回帰”でもある。

「5」に“出世”した名遊撃手も



河埜は74年に背番号「61」から「29」になった

 巨人の「29」が初めて歴史に登場したのは1938年で、翌39年まで着けて応召、戦死した外野手の三田政夫が初代。2代目は捕手の木村由夫だ。戦後、プロ野球が再開されると、46年は欠番だったが、翌47年に3代目となったのが宇野。系譜で最初の内野手で、肩痛で47年オフに退団も、50年に二軍監督として復帰、のち選手にも復帰した。二軍監督として抜擢したのが松田で、松田は別所の背番号を継承したのと同時に、宇野の後継者にも名を連ねた形だ。

 別所から投手ナンバーに転じた巨人の「29」が野手の背中に復帰したのが71年。西鉄で正遊撃手だった浜村健史が移籍1年目だけ着けて「33」に転じ、「29」は広島から移籍してきた右腕の秋本祐作が背負ったが、わずか2年で引退したことで、ふたたび「29」は遊撃手の背中に戻ることになった。

 74年に「61」から「29」に変更してきたのが河埜和正だった。河埜はV9の幕が下りた巨人で正遊撃手となり、79年からは「5」に“出世”している。なお、90年代には西武から来た外野手の西岡良洋が後継者となり、93年の「12」を経て翌94年には「29」に戻ったが、そのオフにはロッテへ。98年から2000年まで着けた川中基嗣はバッテリー以外の全ポジションを守ったユーティリティーだった。

【巨人】主な背番号29の選手
松田清(1950〜55)
木戸美摸(1957〜61)
鹿取義隆(1979〜89)
グライシンガー(2008〜11)
吉川尚輝(2020〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM