チーム創設から三塁手と縁が深く



現在、ソフトバンクで背番号5を着ける松田

 近鉄で三塁手の中村紀洋が「3」から「5」へ変更したことは紹介している。同じ三塁手で、やはり「3」から「5」に変更したのがソフトバンクひと筋でプロ16年目を迎えた現役の松田宣浩だ。ただ、松田は2006年に入団したときに与えられたのが「5」であり、あこがれていた巨人の長嶋茂雄がトレードマーク、そして永久欠番にした「3」へと17年に変更したものの、わずか2年で“原点回帰”。同じリーグで同じポジション、同じ背番号の流れではあるが、チームの先輩で、あこがれていた村上隆行(崇幸)の背番号を継承した中村とは対照的に、あこがれの背番号とは決別した形だ。

 長い間ともに歩んできた「5」を背負う松田には、やはりホットコーナーが似合う。2シーズン制だった1938年の秋季に南海としてプロ野球に参加したホークスで、初代は右腕の鈴木芳太郎だが、2代目は鶴岡一人。戦後の南海を監督として黄金時代に導いた“親分”のプロ1年目は三塁手だった。その1年目から鶴岡は10本塁打で本塁打王に。だが、1年で応召し、復帰したのは戦後。46年は「1」を着け、その後は当時の監督ナンバー「30」を背負った。

「5」を継承したのは左腕の清水秀雄で、やはり1年で応召、一塁手の村上一治を挟んで兵役から復帰した清水が「5」に戻ったが、43年に兵役から復帰して正三塁手の座を継承したのは投手から転向した初代の鈴木だった。戦後、鶴岡と同期で入団して「7」を着けていた外野手で、背番号が廃止された44年にチーム初の首位打者となった岡村俊昭が「5」に。1リーグ制の終焉とともに49年いっぱいで引退した岡村は指導者としても「5」を55年まで背負い続けた。黄金時代を支えた功労者だった。


南海で56年から68年まで背番号「5」を着けた穴吹

 56年に「5」を継承したのは中大で三塁手として活躍していた新人の穴吹義雄(隆洋)だ。まだドラフトのない時代、穴吹の争奪戦は熾烈を極め、多額の金銭が動いたことから、『あなた買います』という小説の題材となったことでも知られる。デビュー戦となった56年の開幕戦からサヨナラ本塁打を放った穴吹は1年目から100試合に出場するも、成績は派手なものとはいえず、すぐ外野手に転向。翌57年から3年連続2ケタ本塁打も、打率3割を突破することのないまま68年オフに現役を引退した。

 ただ、穴吹が真価を発揮したのは指導者に転じてからだろう。打撃コーチや二軍監督として若手の育成に尽力、83年から85年までは監督として低迷するチームを支え続けた。結果的に岡村、穴吹と外野手が続いた「5」は、以降、安定感を欠いていく。

復活したホットコーナー


 穴吹の引退で山本浩司(浩二。広島)や田淵幸一(阪神ほか)らと“法政三羽烏”と並び称された新人の富田勝が継承。富田も三塁手だったが、優勝を知らないまま巨人へ移籍。南海にとって最後のリーグ優勝となった73年に「5」を継承した松井優典は富田と同期の入団で、選手としてはバックアップがメーンだったものの、やはり指導者として手腕を発揮している。松井がヤクルトへ移籍して75年に捕手だけでなく内野、外野も守った和田徹が後継者に。和田の引退で、伊藤勲を経て82年に西武から移籍してきて継承した山村善則も内野、外野をこなした名バイプレーヤーで、南海の最後、ダイエーの最初に「5」だったのが山村だった。


90年から98年までダイエーで背番号「5」を着けた藤本

 その引退で90年に後継者となったのはホークス9年目となる藤本博史で、南海で最後の正三塁手。初めて全試合に出場した92年も三塁手として自己最多の20本塁打を放ったが、藤本も93年は一塁、94年には二塁に回るなど三塁からは遠ざかっていき、98年シーズン途中にオリックスへ移籍して、シーズン限りで引退した。翌99年に後継者となったのは新人で内野手の吉本亮(龍生)で、ダイエーは初優勝に日本一、リーグ連覇を飾ったものの、「5」を一軍の試合で見ることはできず。吉本が「50」に変更された2006年に継承したのが松田だ。

 松田が穴吹の背負った13年間を更新した21年は、藤本も吉本も指導者としてソフトバンクを支えている。とはいえ、松田に指導者の印象を抱くのは、まだまだ先のことになりそうだ。

【ソフトバンク】主な背番号5の選手
清水秀雄(1940、42〜43)
岡村俊昭(1946〜55)
穴吹義雄(1956〜68)
藤本博史(1990〜98)
松田宣浩(2006〜16、19〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM