ロッテオリオンズ



ロッテ・落合博満

 数字やタイトルで言えば、落合博満の右に出るものはいない。1982年に三冠王を達成した翌83年から四番に定着し、85年も2度目の三冠王を獲得。86年までのロッテ在籍8年間で242本塁打、659打点、打率.322。残した成績はすさまじいが、相手投手を打ち砕く心意気が生き様を表していた。「落合は、その投手の決め球、絶対的なボールを狙っていた。自信のあるボールを打てば、より投手にダメージを与えられると思っていたんだろうな」と話すのは、幾多の名勝負を繰り広げた阪急のエース・山田久志だ。結果を求め、勝負に徹した男は「チームが負けてもさ、自分が4の4(4打数4安打)打ったら、それでいい。勝負事というのはそれでいいと思う」と“オレ流”の考えを貫く職人だった。

西武ライオンズ



西武・清原和博

 西武は黄金時代の四番・清原和博が80年代最強の四番で異論はない。初めて四番に座ったのは高卒1年目、10月7日のロッテ戦(川崎)。その試合で59年の桑田武(大洋)に並ぶ新人最多の31号本塁打を放った。史上初の第8戦まで突入した広島との日本シリーズで全試合四番。しかも、1戦目に自打球を左足に当て親指を亀裂骨折しながらフル出場を果たし、31打数11安打、打率.355でシリーズ首位打者に。その後、四番としてチームを頂点に導く打撃を披露。タイトルとは無縁だったが、大舞台に強く、時に状況に応じてチーム打撃を見せるスタイルは、まさに王者の四番にふさわしいものだった。

南海ホークス



南海・門田博光

 1980年代は常にBクラスの南海にとって暗黒期。それでも四番を担った門田博光は、輝く活躍を見せた。80年は前年の右足アキレス腱断裂からの完全復活を印象付けるように自身初40の大台を超える41本塁打を放つと、81年には44本、83年にも40本で本塁打王に。そして、圧巻だったのは88年だ。同年で40歳を迎えたが、打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王、打点王とともにMVPを獲得。40歳でのMVP選出はプロ野球史上最年長記録で、40代での40本塁打超え、100打点超え、OPS10割超え(1.062)も史上初だった。「不惑の大砲」は、南海の最後を華々しく締めくくった。

日本ハムファイターズ



日本ハム・柏原純一

 1981年、日本ハム初優勝時の和製大砲・柏原純一が80年代のチーム最強四番だろう。78年に南海から移籍して80〜84年まで全試合出場。80年代前半の5年間、ほぼ四番に座り、トミー・クルーズ、トニー・ソレイタとともに強力クリーンアップを形成して一時代を築いた。柏原自身は「三番を打ちたかった」が、ソレイタが四番を固持したため抜擢されたという。80年はキャリアハイの34本塁打を放ち、81年は四番打者として打率.310、16本塁打、81打点でリーグ優勝に貢献しプレーオフMVP。巨人との日本シリーズでは江川卓から2本塁打を放っている。81年、西武・永射保の投じた敬遠球を本塁打したことでも有名。敬遠球を本塁打にしたのは、巨人・長嶋茂雄と柏原のみである。

阪急ブレーブス



阪急・ブーマー

 本名は「グレゴリー・デウェイン・ウェルズ」も“ブームを呼ぶ男”として登録名を「ブーマー」とした助っ人が四番に君臨。1983年に来日し、2年目の84年には打率.355、37本塁打、130打点と外国人初の三冠に輝き、阪急最後のリーグ優勝に貢献した。打球飛距離は群を抜いていた一方、優れた選球眼を兼ね備え、柔らかいスイングを見せ軽打を放つことも。本塁打王は三冠王を獲得した84年のみだが、87、89年に打点王、89年に首位打者のタイトルが、単なる長距離打者ではないことを物語る。80年代最強の助っ人にして四番打者だった。

近鉄バファローズ



近鉄・デービス

 1980年代の近鉄主砲として思い浮かぶのはラルフ・ブライアントだが、優勝した89年に放った49本塁打のうち、四番打者としてマークしたのは3本に過ぎなかった。この時代は三番に入ることが多かったのだ。最強四番打者は84年から5シーズンにわたり近鉄でプレーしたリチャード・デービスで異論はないだろう。日本で放った通算117本塁打のうち、四番としてマークしたのは実に106本塁打。85年には三冠王の落合博満の陰に隠れる形となったが、打率.343、40本塁打、109打点と大暴れを見せた。だが、幕切れはあっけなかった。88年のシーズン中に大麻不法所持で逮捕されてしまったのだ。抜群の成績を残しながら、お騒がせ助っ人のイメージが強い。

写真=BBM