新人王の輝きが悲運の序章に



南海最後、ダイエーで最初の背番号「11」だった左腕・吉田

 昭和の時代から巨人の別所毅彦や阪神の村山実が着け、投手ナンバーの代表格となった「11」だが、20世紀には南海として、21世紀にはダイエー、ソフトバンクとして、黄金時代を築いたホークスの「11」は、大騒動の末に移籍した別所が巨人で自らの代名詞にしたこともあるのか、粗末に扱われていたわけではないものの、優遇されたとまでいえないのも特徴だ。期待の新人に与えられるケースも多かったが、悲運の影も見え隠れする。

 昭和を知り、平成を生きたファンの印象に残っている「11」の投手は、“最後の南海戦士”吉田豊彦だろう。ドラフト1位で1988年に南海へ入団した左腕。1年目から即戦力となって43試合に登板したものの、そのオフにチームはダイエーとなり、本拠地も福岡に。それでも、そのダイエー“元年”の89年には初の2ケタ10勝を挙げて、新生チームのエース左腕に名乗りを上げた。ダイエーは南海から続く低迷から抜け出せずにいたが、吉田は92年に11勝、94年には12勝を挙げて、ともに勝ち越し。苦境にあえぐチームを支えた。

 だが、豊富な資金力を誇るダイエーは、同じ左腕の工藤公康ら、有力な選手を次々に補強。今度は吉田が苦境に陥ることになる。徐々に失速した吉田は98年には一般的なエースナンバー「18」に変更も、シーズン途中に阪神へ。そこで自信を取り戻し、近鉄を経て楽天で引退。20年もの長きにわたる現役生活だった。

 吉田の存在は象徴的だが、悲運の投手たちの系譜が始まったのは古い。投手ナンバーというイメージのなかった戦前、戦中は完全に野手の系譜。1943年に1年だけプレーして社会人に転じたものの、戦後に復帰して俊足の内野手として活躍した4代目の安井亀和が代表格だ。


57年、21勝を挙げて背番号「11」で新人王に輝いた木村

 プロ野球が2リーグ制となった50年に5代目となった右腕の野口勝美が系譜で最初の投手。だが、野口は3試合の登板に終わり、1年で南海の二軍のような存在だった社会人の南海土建へ。続いた右腕の大崎憲司も1年で引退、52年に南海土建から来て「11」を背負った右腕の井上慎一は2年目の53年には14勝を挙げるなど黄金時代を支えたが、4年で引退。続いてハワイから来た捕手の藤重登が継承したが、1年で「8」に。そして57年、後継者となったのが木村保だ。1年目から21勝を挙げて新人王に輝いた右腕。だが、この輝きは悲劇の序章だった。

最長は小椋の13年だが……


 木村は2年目の58年は4試合の登板に終わり勝ち星なし。右肩の故障が急失速の理由だった。60年には外野手に転向したが、結果を残せないまま63年いっぱいでユニフォームを脱ぐ。その63年に巨人から移籍してきてプロ初勝利を含む11勝でブレークした高橋栄一郎が翌64年から「11」となるも、2年で「13」に。最終的に通算114勝を残す右腕の森中千香良が「55」からの変更で66年に「11」となるも、1年で大洋(現在のDeNA)へ移籍する。翌67年に後継者となった左腕の上田卓三がドラフト1位で入団して「11」を与えられた第1号。阪神で2年間プレーするも南海で引退し、ダイエーの球団社長に“大成”した系譜で異色の存在だ。

 上田の移籍で2年間は欠番となり、中日から移籍してきて3年目で左腕の星野秀孝が3年、4年目で生え抜き左腕の竹口昭範が2年。83年には甲子園で池田高を優勝に導いた右腕で、ドラフト1位で入団した畠山準が後継者となるも、結果を残せないまま88年に「11」を吉田に譲り外野手に転向、91年には大洋へ。初めて規定打席に到達したのはチームが横浜となった93年だった。


ホークスでは最長の13年間、「11」を背負った小椋

 吉田を挟んでドラフト3位で入団した小椋真介が最長の13年間「11」を背負い続けるも、本領を発揮しないまま最後は「16」で引退。その後は西武から来た左腕の帆足和幸、オリックスから復帰した右腕の寺原隼人が1年ずつ、14年には中日から来た右腕の中田賢一が継承するなど“移籍組”のリレーとなる。中田は移籍1年目に11勝を挙げたが、19年オフには阪神へ。ドラフト2位で入団した右腕の津森宥紀が20年に後継者となった。迎えた21年の津森は視界も良好。「11」にたちこめる悲運の霧を完全に払拭してほしいところだ。

【ソフトバンク】主な背番号11の選手
安井亀和(1943、46〜48)
木村保(1957〜63)
上田卓三(1967〜75)
吉田豊彦(1988〜97)
津森宥紀(2020〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM