移籍してきた投手たち



巨人から近鉄に移籍して背番号「12」を着けた香田

 投手が着けることが多い背番号のうちで、もっとも印象が薄い気配を漂わせている「12」。全チームの歴代でも存在感を放つのは投手ではなく、投手から野手に転じて韋駄天として名を馳せた巨人の柴田勲や南海(現在のソフトバンク)の広瀬叔功らがインパクトを放っている。「18」が「十八番(おはこ)」を由来に日本人にとって馴染みやすいためエースナンバーとして普及したのだとすれば、午前も午後も12時まで、1ダースは12個であるなど、日常生活においては登場頻度の多い「12」が背番号の世界では地味な傾向にあるのは、やや不思議な気もする。逆に、日常に溶け込み過ぎて、存在が見えづらくなっているのだろうか。

 歴史に幕を下ろした近鉄の「12」にも、系譜に強烈な存在感を誇るような選手は不在といえる。ただ、スター選手にしか興味がないファンも少なくないかもしれないが、渋い選手こそ大好物というファンも少数派ながらいるはずだ。そんな向きには垂涎モノの選手たちが系譜に並ぶ。

 最後を飾ったのは楽天での奮闘も印象に残る右腕の山村宏樹。ドラフト1位で入団した阪神では「17」を与えられるも芽が出ず、近鉄で「65」を背負いブレーク、2001年には7勝を挙げて最後のリーグ優勝にも貢献した。ただ、そのオフに「12」を継承してからは失速。分配ドラフトで“移籍”した楽天で復活した。

 山村に至るまで近鉄の「12」は長く移籍してきた投手の系譜で、山村の前任者は1995年に巨人から来た香田勲男。日本シリーズで巨人に3連勝、あと1勝で日本一という第4戦のマウンドで近鉄の前に立ちはだかった右腕だ。香田も「最初は非常につらかったですね。味方のファンにもヤジられました」と苦笑して振り返る。それでも、移籍2年目までは故障もあって苦しんだものの、97年に先発で9勝、99年には救援で55試合に投げまくり、Vイヤーの2001年にも36試合に登板してチームを支え、オフに引退。最後は「ほんと近鉄に行って、よかったと思います」と振り返っている。


香田の前に背番号「12」を着けていた真喜志

 香田の前は生え抜きだが、野手。この21年は楽天で一軍ヘッドコーチを務める真喜志康永だ。27歳となる1987年に入団して「12」を背負い、89年には遊撃手としてリーグ優勝に貢献すると、前述した巨人との日本シリーズでも打率.364、1本塁打の活躍を見せた。現役生活は8年と短かったが、指導者としてパ・リーグひと筋、途切れることなくユニフォームを着続けている。

初優勝の原動力となった右腕も



2年連続15勝で79、80年の連覇に貢献した井本

 期間は短かったが、真喜志の前に4年間、近鉄の「12」を背負ったのが鈴木康二朗。ヤクルト時代、巨人の王貞治に通算756号を献上したことが真っ先に語られる右腕だが、これも逃げずに勝負したからこそ。近鉄2年目の84年から2年連続セーブ王と歴戦の貫禄を見せている。移籍してきた投手の系譜は、この鈴木から始まったもので、その前は生え抜き右腕の井本隆だ。79年から2年連続15勝で初のリーグ優勝、連覇の原動力となり、プレーオフでも2年連続で第1戦の勝利投手、79年の広島との日本シリーズでも2勝を挙げるなど、近鉄の「12」における貴重な主役タイプ(?)だったが、鈴木とのトレードで移籍したヤクルトでは結果を残せず、2年で引退した。

 井本の前は70年から着けた捕手の木村重視(のち貴臣)で、「54」「27」「12」「43」と4つの背番号を渡り歩きながらも近鉄ひと筋14年。その前任が低迷期を支えた右腕で、勝ち星を残せなかった左腕の近藤三明から「12」を受け継いだ山本重政。3年目の64年は63試合に投げまくって12勝、66年にはリーグ最多の19敗を喫しながらも防御率2.72の安定感を発揮した。

 近藤の前に56年から58年まで背負ったのは右腕の永井康雄で、55年に自己最多の9勝を挙げて「37」から変更、「12」1年目にも8勝を挙げた。その前は55年が右腕の新田道郎、54年が外野手の萱原一美(のち稔)と1年ずつのリレーだったが、近鉄“元年”の50年から53年まで背負ったのは宝山省二。「12」の初代は、1年目からリーグ最多の43失策を喫しながらも、戦力難に苦しむ近鉄で奮闘し続けた初代の正三塁手でもある。

【近鉄】主な背番号12の選手
宝山省二(1950〜53)
山本重政(1962〜1969)
井本隆(1973〜82)
真喜志康永(1987〜94)
香田勲男(1995〜2001)

文=犬企画マンホール 写真=BBM