“エイトマン”から“若大将”へ



80年代の巨人をある意味象徴していた背番号「8」の原

 広島からFAで移籍してきた丸佳浩が2019年から背負う巨人の「8」。この21年で3年目と、まだ期間が短いこともあり、その「8」で真っ先に思い浮かべる選手は丸ではない、というファンも少なからずいるはずだ。もちろん、丸に問題があるわけではない。巨人の「8」は丸の背番号であるのと同時に、丸だけの背番号でもないということだろう。これは過去、その背番号を着けた選手たちの実績が輝けるものであればあるほど、強くなる傾向。巨人の「8」も間違いなく、そんな物語を紡ぐ背番号のひとつだ。

 21世紀に生まれた若いファンでも、現在の監督でもある原辰徳が現役時代に背負っていたのが「8」であることを知る人は多いだろう。ドラフト1位で1981年に入団した原は、開幕こそ二塁を守ったが、シーズン途中から三塁に定着、1年目からリーグ優勝、日本一に貢献して新人王に輝いた。その後も爽やかなキャラクターで“若大将”と呼ばれて一世を風靡。巨人戦テレビ中継の黄金期とも重なり、巨人の「8」で真っ先に原を思い浮かべるのは巨人ファンよりも、プロ野球ファンですらない人のほうが多いかもしれない。お茶の間にはテレビが1台、夕飯のタイミングでは必ず巨人戦が流れているのが一般的な家庭の光景だった時代だ。95年いっぱいで引退するまで一貫して背負った原の15年は歴代で最長でもある。


原の背番号「8」の前任者だった高田

 原が「8」を背負うのにはタイミングもあった。その入団の前年、80年いっぱいで「8」のユニフォームを脱いだのがV9戦士の高田繁だ。“エイトマン”の異名もあり、原とは別の意味で「8」を自らの象徴にした存在でもあった。高田もドラフト1位の入団で、1年目の68年から「8」を背負って新人王に輝き、長く華麗な外野守備で沸かせたが、76年からは三塁に。大学で三塁手として鳴らしていた原は、背番号とともに、最終的には三塁の座を高田から継承したことになる。

 また、原の後継者となった仁志敏久はドラフト2位(逆指名)での入団だったが、1年目の96年から正三塁手に。ただ、2年目からは二塁に回って、長くリードオフマンとして活躍した。四番打者のイメージがある原の一方で、一番打者として打線を引っ張る印象が強いのが高田と仁志だ。

 だが、仁志が横浜(現在のDeNA)へ移籍した2007年にオリックスから加入した谷佳知からは、西武から来た片岡治大、現在の丸がリレーして、印象が一変。ただ、こうした“移籍組”の選手が「8」を着けたのは、これが初めてではない。

プロ野球の“前夜”に水原が



巨人の初代背番号「8」だった水原

 高田よりも前の時代、巨人の背番号で不動の主役は王貞治の「1」と長嶋茂雄の「3」。その後の五番打者を他チームから獲得し続けた時期に、巨人へ移籍してきて「8」を着けたのが、東映(現在の日本ハム)から来た吉田勝豊だった。ただ、その前任の“大明神”坂崎一彦は生え抜きで、プロ7年目の1962年に「20」からの変更だったが、3年で吉田とトレードされている。坂崎の前に4年間「8」を着けていた藤本伸は内野の名脇役。その前任の平井三郎(正明)は“移籍組”の元祖。巨人が3チーム目だが、所属した全チームで正遊撃手を務めた名手だった。

 プロ野球が2リーグ制となった50年が系譜で唯一の欠番で、戦後の1リーグ時代は戦時中から在籍していた三好主が1年、47年の正遊撃手だった田中資昭が3年と内野手がリレーしたが、「8」に内野手の印象を定着させたのはプロ野球が始まった36年から43年まで背負い続けた白石敏男だろう。現在は一般的なプレーだが、当時はタブーだった逆シングルとトレードマークとした名遊撃手。巨人だけでなく、2リーグ期は広島でチームの礎を築いたプロ野球の功労者でもある。

 ただ、プロ野球より歴史が長い巨人。プロ野球の“前夜”といえる35年に「8」だったのは、のちに監督として黄金時代を築く水原茂で、ポジションは三塁だった。21世紀に巨人の監督としても一時代を築いた原は、時代を超えて、水原の後継者ともいえるのかもしれない。巨人ではないが、白石や高田も監督を経験しており、巨人の「8」には監督を輩出する系譜という隠れた横顔もある。

【巨人】主な背番号8の選手
白石敏男(1936〜43)
高田繁(1968〜80)
原辰徳(1981〜95)
仁志敏久(1996〜2006)
丸佳浩(2019〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM