「0」で初の2ケタ犠打



巨人で初めて背番号「0」を着けた川相

 プロ野球よりも長い歴史を誇る巨人にあって、もっとも歴史の浅い1ケタの背番号である「0」。もっとも、すでに紹介したように「0」がプロ野球に登場したのは1983年に広島で長嶋清幸が着けたときだから、21世紀に誕生した楽天を除いて、すべてのチームに当てはまるのだが。長嶋の活躍によって「0」は多くのチームに普及していき、この流れに巨人が乗ったのは89年のことだった。

 初代は川相昌弘。巨人と中日で現役24年、世界記録の通算533犠打を残した“世界の犠打王”だ。ただ、入団したのは83年で、ドラフト4位で指名された投手だった。与えられた背番号は「60」。のちに巨人でもFAで中日から移籍してきた落合博満が着けて、現役では西武の中村剛也がトレードマークにしているなど、近年は目立つ背番号になっているが、当時は大きな期待を受けた新人に与えられる背番号ではなかった。それでも川相は、すぐ内野手に転向して、2年目から一軍を経験。当初は守備要員だったが、もともとの野球センスを猛練習で磨き、徐々に出場機会を増やしていく。

 高校時代から「セーフティーバントとか小細工は結構、好きだった」という川相は、88年までの6年間で16犠打のみながら、新たに「0」を背負った89年に98試合で倍の32犠打。規定打席には届いていないが、正遊撃手としてゴールデン・グラブ賞にも選ばれている。巨人の「0」と時を同じくして、“世界の犠打王”が本格的に歩み始めたといえそうだ。川相は99年まで「0」を背負い続け、この11年は巨人の歴代では最長だ。一方、「60」で川相の後継者となった落合は1年でトレードマークの「6」に変更するも、2年で自由契約を選んで日本ハムへ移籍。その「6」は近鉄から来た石井浩郎が継承するも、その石井も3年でロッテへ。このとき「0」から「6」に変更したのが川相だった。

 最初の「60」を分解して1ケタにした数字をリレーすることになった川相だが、犠打の世界記録を更新した2003年のオフに原辰徳監督をコーチとして支えるべく引退を表明。だが、“人事異動”で原監督が退任すると、引退を撤回して中日へ移籍。06年オフに現役を引退するまでは「7」でプレーを続けている。

 巨人の「0」は川相が「6」に変更したことで1年間の欠番に。01年に2代目となったのがプロ4年目の川中基嗣で、バッテリー以外の全ポジションを守って巨人を支えたユーティリティーだった。川中は06年オフに「0」を重ねた「00」となり、1年で引退。翌07年に「0」を継承したのも、同じくユーティリティーで、06年シーズン途中に広島から移籍してきて「58」を着けていた木村拓也だ。

広島と巨人の3代目



ユーティリティーとして巨人でも存在感を発揮した木村拓

 発祥の広島で「0」の3代目だった木村は、巨人の「0」でも3代目に。“プロのユーティリティー”とも評された木村だが、もともとは捕手で、ラストイヤーとなった09年には死球禍のアクシデントもあって巨人がベンチの捕手を使い果たしたときには、自らブルペンに走り、10年ぶりのマスクながら3投手の球を受ける離れ業を見せている。巨人の「0」でマスクをかぶった第1号の選手だ。

 木村の引退で10年に「0」を継承したのは外野手の工藤隆人で、日本ハムから移籍してきて2年目のことだったが、翌11年シーズン途中にサブローとのトレードでロッテへ。「0」はサブロー改め大村三郎が着けたものの、そのオフにFAでロッテへ復帰。この慌ただしいリレーが系譜の流れを変えてしまったのか、その11年に「54」の正二塁手として盗塁王となった5年目の藤村大介が12年に後継者となるも、藤村は「0」では失速してしまい、16年オフに新人で内野手の吉川尚輝に「0」を譲る形となって、「57」となった17年オフに現役を引退。

 吉川も「0」では伸び悩み、「29」に変更した20年にブレーク、正二塁手として初めて規定打席に到達している。ただ、その20年に8代目となった増田大輝によって、巨人の「0」も息を吹き返したように見える。17年シーズン途中に育成から支配下となった俊足のユーティリティーで、「0」は自身4個目の背番号だ。

【巨人】主な背番号0の選手
川相昌弘(1989〜99)
川中基嗣(2001〜06)
木村拓也(2007〜09)
藤村大介(2012〜16)
増田大輝(2020〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM