巨人に牙をむく投手の伝統?



現在は藤浪が阪神の「19」を背負っている

 1979年に巨人から阪神へ移籍してきて「19」を背負い、巨人戦8連勝を含む22勝を挙げた小林繁については紹介したばかりだ。このときの小林は古巣での背番号を新天地でも変わらず着けたものだったが、巨人に牙をむいた阪神の「19」としては、小林はパイオニアではない。阪神と巨人の“伝統の一戦”も通算2000試合に到達しようという現在、ドラフト1位で2013年に入団した藤浪晋太郎に継承されている阪神の「19」だが、阪神の長い歴史をさかのぼっていくと、おそらくは史上もっとも巨人に対して燃えたであろう右腕の姿が見えてくる。

 巨人戦で燃えた阪神の右腕は少なくないが、場外でも巨人ナインに牙をむいた(?)逸話を残すのが西村幸生だ。プロ野球が始まった1936年は捕手の佐藤武夫が着けていたが、1年で移籍して、翌37年に2代目となったのが西村で、同郷で7歳下ながらプロでは先輩となる巨人の沢村栄治に闘志を燃やし、2シーズン制だった37年の秋に15勝、防御率1.48で最多勝、最優秀防御率の投手2冠、チーム初優勝の原動力に。当時は春季と秋季の覇者が年度優勝決定戦で雌雄を決する方式で、東京から大阪への移動中の列車に乗り合わせた巨人ナインを酔ってからかったのが“酒仙投手”西村だった。


“酒仙投手”の異名があった西村

 ただ、西村の牙はチームメートにも向けられ、石本秀一監督に対しても容赦なし。対照的に家庭では物静かで、娘には「自分より力のない人、弱い人をいじめてはいかん。上の人、力の強い人を怖がってはいかん」と言っていたという。1シーズン制となった39年に11勝も、「契約が切れただけ」と引退。45年、戦火に消えた。

 一方、西村の引退により、「19」は捕手の背中に戻る。40年に3代目となったのが、戦後の1リーグ時代に正捕手、そして“ダイナマイト打線”の一角として強肩強打で活躍した土井垣武。2リーグ分立とともに土井垣が毎日(現在のロッテ)へ移籍すると、阪神3年目で遊撃手の西江一郎が後継者に。55年に継承した遊撃手の鹿野鉱一は1年で退団、翌56年に6代目となったのが、その1年目の開幕戦から本塁打、三塁打、二塁打を放っただけでなく、二盗、三盗、さらに本盗まで決める離れ業を見せた大津淳だった。登録は外野手だが、60年には1試合ながらマスクもかぶるなど野球に精通した選手で、実働6年で引退してからもフロントとしてチームへの貢献を続けている。

最長は“猛虎フィーバー”の胴上げ投手


 多くのチームで投手の背番号になりつつあった「19」だが、阪神では好打者が続いた。大津の引退により62年に後継者となったのが藤井栄治。ポーカーフェイスで“鉄仮面”の異名もあった強打者で、1年目からレギュラーとなってリーグ優勝に貢献した堅守強打の外野手だ。藤井は太平洋(現在の西武)へ移籍するまで歴代2位の12年間「19」で過ごし、藤井とのトレードで来て1年で引退した外野手の阿部良男を挟んで75年に9代目となったのが歴代2人目、戦後は第1号の投手となる工藤一彦で、小林に「19」を譲って「26」でブレークした右腕だ。


阪神で最長の13年間、「19」を背負った中西

 工藤の4年間、小林の5年間を経て、84年に継承したのが右腕の中西清起。高知商高をセンバツ優勝に導いた“球道くん”のブレークはプロ2年目の85年で、気迫の投球で21年ぶりリーグ優勝の胴上げ投手となり、西武との日本シリーズでも防御率0.00と完璧な投球で2リーグ制での初の日本一に貢献した。その後も救援を中心に先発でも活躍した中西は96年いっぱいで引退するまで阪神ひと筋。最長の13年間「19」を背負い続けている。

 中西が引退した翌97年は土井垣の応召による欠番に続く2度目の欠番。その翌98年に「41」から「19」に変更したのが阪神4年目、サイドからのジャイロボールで打者を翻弄した川尻哲郎だ。川尻が近鉄へ移籍したことで2004年に後継者となった新人の筒井和也は系譜で初の左腕で、09年に筒井が「20」に変更すると、「19」は右腕の蕭一傑を経て、現役の藤浪に受け継がれた。この2021年は初めて開幕投手を務めた藤浪。その背番号とともに、反骨で鳴らした猛虎たちの遺伝子も必ずや受け継がれているはずだ。

【阪神】主な背番号19の選手
西村幸生(1937〜39)
藤井栄治(1962〜73)
中西清起(1984〜96)
川尻哲郎(1998〜2003)
藤浪晋太郎(2013〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM