新井は“突然変異”?



99年ドラフト6位で広島に入団した新井。1年目から「25」を背負った

 広島の「24」については紹介したばかりだが、続く「25」も現在は欠番となっている。大野豊が着けた「24」が昭和の黄金時代を象徴するナンバーのひとつなら、「25」は平成の黄金時代を象徴しているといえるかもしれない。広島は2016年からチーム初のリーグ3連覇を達成したが、その16年にMVP、通算2000安打にも到達して、3連覇を見届けるように現役を引退した新井貴浩の背番号だ。

 ただ、新井の「25」が輝いたのは、この3年間だけではない。四半世紀、優勝から遠ざかっていた広島。その低迷期の暗いトンネルを照らしていたのが「25」だった。ドラフト6位で1999年に入団した新井は1年目から「25」。大学までは長打力のあるタイプではなかったが、広島で飛距離が出るようになり、着実に出場機会を増やして3年目の2001年には不動のレギュラーに。05年には43本塁打で本塁打王に輝いた。07年オフにFAで阪神へ移籍してからも「25」を背負い、15年に広島へ復帰した15年だけは「28」を着けたが、25年ぶりリーグ優勝の16年からは「25」に。現役生活20年のうち19年で「25」、08年の北京オリンピックにも「25」で出場するなど、「25」は広島にとどまらず、新井の象徴でもあった。


09年に横浜から広島に移籍した石井。12年までの4年間、「25」を着けた

 新井が阪神へ移籍すると、08年の1年だけは助っ人のシーボルが着けたが、翌09年には横浜(現在のDeNA)から移籍してきてプロ21年目を迎える石井琢朗が継承、コーチ兼任となった12年オフに引退するまでの4年間を「25」で過ごした。横浜では“マシンガン打線”のリードオフマンとして98年のリーグ優勝、日本一に貢献した石井は新井とは異なるタイプだったが、もともと広島の「25」は石井のようなタイプが並ぶナンバーで、むしろ新井が“突然変異”だったといえそうだ。

 広島がプロ野球に参加した1950年から59年までの50年代は短期間リレーが続いたが、53年シーズン途中にハワイから来日し、54年に一番打者として27盗塁を決めた銭村健四が「25」だった。兄の健三と一緒に来日、入団したが、兄は1年目の閉幕とともに退団、弟は55年に「7」となり、翌56年までプレーしている。

「25」が初めて3年を超えて同じ選手の背中に輝いたのは60年代に入ってから。60年に「25」となり、67年オフに近鉄へ移籍するまで背負い続けたのが、のちに監督として昭和の黄金時代を継承することになる阿南潤一(準郎)だった。

西本の兄、定岡の弟



阿南の現役時代(左。右は安仁屋宗八)。右ソデにも「25」が着いている

 56年に入団した阿南が最初に着けたのは「50」。1年目から遊撃手として存在感を放ち、背番号を半分の「25」に変更した60年からは三塁のレギュラーに。63年からは二塁に回ったが、いずれも遊撃の古葉毅(竹識)とのコンビネーションは絶品で、引退してからもコーチとして広島へ復帰して古葉監督を支え、監督のバトンも古葉から受け継いで、就任1年目の86年にリーグ優勝を果たしている。

 阿南の移籍で68年に「25」を継承した新人の井上弘昭は翌69年に外野のレギュラーとなるも、山本浩司(浩二)の入団で三塁に回る。真価を発揮したのは72年オフに中日へ移籍してからで、広島が初のリーグ優勝を果たした75年には、その山本と首位打者を争った。井上の移籍で73年だけ「25」を着けた西本明和は巨人の「26」で知られる西本聖の兄。翌74年に後継者となったのがドラフト1位で入団した新人の木下富雄で、名バイプレーヤーとして昭和の黄金時代を支えた内野手。内野すべてのポジションだけでなく時には外野にも回って現役14年間で広島ひと筋、一貫して「25」を背負い、期間の長さでは広島の「25」としては12年にとどまる新井を超える最長だ。口ヒゲをたくわえた風貌でも印象に残る。

 木下の引退で88年だけ「25」を着けた定岡徹久は巨人の定岡正二ら“定岡3兄弟”の末弟。その後は内野手の益田尚哉を挟んで、91年に中日から移籍してきて内野のバックアップとして機能した山田和利が95年オフに中日へ復帰するまで。翌96年に新人で内野手の高山健一が継承も3年で西武へ移籍。その後継者が新井だ。

 まだ前任者の印象も鮮明な「25」。後継者のハードルは「24」より高そうだ。

【広島】主な背番号25の選手
阿南準郎(1960〜67)
木下富雄(1974〜87)
山田和利(1991〜95)
新井貴浩(1999〜2007、16〜18)
石井琢朗(2009〜12)

文=犬企画マンホール 写真=BBM