初の日本一を決めた名場面で



広島では背番号「26」を背負った江夏

 着けた期間は短くとも、わずか一瞬の光芒によって、選手と背番号が一体化したように見えてしまうことがある。その選手が他で着けた背番号の存在は希薄となり、そのチームで同じ背番号を前後に着けた選手の印象にも少なからず影響を与えてしまう。どんな選手も遅かれ早かれ引退の時を迎え、永久欠番などの例外はあれど、その背番号が受け継がれていくものである以上、これは背番号が紡ぐ物語の横顔だろう。広島の「26」も、そんな背番号のひとつといえそうだ。

 広島が初めて日本一に輝いたのは1979年だが、その日本一の瞬間に強烈な光を放った江夏豊が背負っていたのが「26」だった。これまで続けて広島の「24」、「25」と紹介してきたが、「24」を象徴する大野豊は19年間、「25」は期間では2位ながら新井貴浩が12年間と、ともに長い時間を過ごしている。一方、江夏が広島の「26」を背負っていたのは3年に過ぎない。阪神でエースとして活躍しながら満身創痍となっていた江夏は、南海(現在のソフトバンク)へ移籍して、リリーバーとして復活。球団の内紛もあって移籍を志願、広島を新天地としたのが78年だった。

 広島でも役割は変わらず。79年の近鉄との日本シリーズでは、ともに王手をかけて迎えた第7戦(大阪)、広島が1点をリードして迎えた9回裏に無死満塁のピンチを招きながらも無失点で切り抜けて広島を日本一へと導いていく。“江夏の21球”と呼ばれるドラマは、数あるプロ野球の頂上決戦でも筆頭に挙がる名場面として語り継がれるものだ。これは広島にとっても初めて経験する日本一の瞬間だったが、これは歴戦ながら優勝とは縁がなかった江夏にとっても同様だった。それまで移籍のたびに背番号を変えた江夏だったが、「26」だけは移籍した日本ハムでも背負い続けている。

 一般的に「26」は投手と打者が混在しているナンバー。それでも投手が多い、打者が多いとチームによって傾向があることも少なくないが、広島の系譜には偏りがない。初めて10年を超えたのが55年に3代目となった木下強三で、翌56年には主に左翼手として111試合に出場、その後も左の代打として存在感を放って65年までプレーして、引退してからもコーチや二軍監督として広島を支え続けた。翌66年に4代目となった鎌田豊も同じ外野手だったが、肩の故障もあって5年で引退。71年に5代目となった永本裕章は右腕で、江夏のように移籍が多く、広島から77年に阪急(現在のオリックス)、80年に巨人、81年に阪急と渡り歩き、その81年までは通算4勝だったが、翌82年には一気に15勝を挙げてエース級の活躍を見せている。永本から右腕の平田英之を挟んで7代目となったのが江夏だ。

菊地原も1年目に着けたが……


 江夏の日本ハム移籍で広島の「26」を継承したのが、同じ左腕で新人の山本和男。ドラフト外での入団ながら1年目からリリーフとして重用され、84年には46試合に登板して優勝に貢献した。88年オフに山本がオリックスへ移籍したことで後継者となった新人の畝龍実 (辰実)も左腕だったが4年で引退。のちにリリーバーとして一時代を築く左腕の菊地原毅が93年に入団して継承するも、一軍のマウンドを踏むことなく1年で「49」となり、西武から来た右腕の鈴木哲が「26」となったことで、江夏に始まった左腕リレーが途切れる。鈴木が西武へ復帰して96年に新人で左腕の吉年滝徳が後継者となったが、5年で引退している。


近年は野手の廣瀬のイメージが強い広島の「26」

 迎えた21世紀、新たな後継者となったのが廣瀬純だった。1年目から強肩と堅守で鳴らした外野のバイプレーヤーだったが、10年目の2010年には右翼のレギュラーとして135試合に出場、初めて規定打席にも到達して23本塁打を放ち、バットでもチームに貢献した。最終的には広島の「26」ひと筋16年。長く優勝とも無縁だったが、最後にチーム25年ぶりのリーグ優勝を見届けて現役を引退した。

 廣瀬から「26」を継承したのが、その廣瀬がキャリアハイを迎えた10年に一軍デビューを果たした9年目で右腕の中田廉。ふたたび投手の背中に戻り、この21年も救援のマウンドで「26」は輝く。

【広島】主な背番号26の選手
木下強三(1955〜65)
江夏豊(1978〜80)
山本和男(1981〜88)
廣瀬純(2001〜16)
中田廉(2017〜)

文=犬企画マンホール 写真=BBM