原監督復帰初年度の巨人で



巨人時代のイ・スンヨプ

「若手の足腰の鍛錬にはいいかもしれないけど、俺から見れば、調整中のベテランを辞めさせる手段にしか思えない(笑)」

 ジャイアンツ球場へ向かう途中の約300段の階段について、元巨人のジョージ・アリアスは雑誌『スポーツ・ヤァ!』のインタビューでそう嘆いてみせた。オリックスや阪神で活躍したアリアスは、2006年7月初旬に巨人入団。原辰徳監督が3年ぶりに復帰したこのシーズン、チームは春先の4月こそ8連勝を記録して、以降も最多貯金14としばらく首位を走るが、主軸に故障者が続出した6月に8連敗。それをなんとか止めた直後に再び31年ぶりの2ケタの10連敗を喫して月間6勝19敗と大きく負け越し。さらに7月4日から14日にも9連敗を喫して、Bクラスに沈んだ。原監督は自著『原点』(中央公論新社)で、当時の惨敗についてこう書いた。

「驚いたことに、とにかく選手がいなかった。主力選手が相次いで故障し、それは年間を通じて絶えなかった。それをフォローすべき控え選手は、まだ独り立ちしていなかった。誰かいないのか。もうどうしようもないから、誰かスターティングメンバーを決めてくれ、と。そのぐらいのメンバーで戦っていた。残念なことに、そんな環境でしか戦えないチーム作りを巨人がしていたということだ」

 そのチーム作りから仕切る全権監督になった今では、口が裂けても言えない15年前の駆け出し青年監督タツノリの本音。そんなどん底のチーム状況においてアリアスは、17試合で打率.167、2本塁打という成績で二軍落ちした。「過去の成績を見れば、俺がスロースターターだってことぐらい分かるだろう。オリックスの時も、阪神の時も、シーズン初めは打率がなかなか上がらないんだ。俺が言うのも何だけど、最初はチョットだけ我慢が必要なんだ」なんて試用期間中の新入社員のような弁解じみた泣きを入れるアリアスとは対照的に、06年の巨人打線でひとり打ちまくったのが、韓国の“ライオン・キング”ことイ・スンヨプである。

苦しんだ来日1年目



来日前、韓国ではサムスンに所属して豪打を発揮した

 韓国プロ野球で本塁打王5度、打点王4度獲得。03年にはKBO記録の56本塁打を放った左打ちのスラッガーは、そのオフにFAでメジャー移籍を希望するも条件が合わず、年俸2億円の2年契約で日本球界のロッテへ。まだ27歳の韓国の英雄がどれだけ活躍するか注目されたが、1年目は日本人投手の変化球攻めに加え、環境面でも苦労する。ドーム球場のプレー経験がほとんどなく、照明も韓国より暗い。一塁には福浦和也がいたため慣れない外野やDH起用が多く、バレンタイン監督の日替わり打順にも苦労した。『週刊ベースボール』でロッテOBの大村巌が直撃したロングインタビューでは、その戸惑いを語る。

「日本は細かいですね。自分に対しても徹底的に研究してきます。カウント1-3で真っすぐを狙っても、変化球が来ます。あと、(韓国では)初球からフォークということもないです。それは勝負球として最後に投げるものですから」

「自分はどうしても指名打者には慣れません。考え込むタイプなので。試合が終わって、満足しないんですよ。一日、何をやっていたんだろうと思ってしまいます。ベンチと守備位置を行ったり来たり、忙しい方がいいですね」


来日1年目、ロッテでは打撃不振で5月に二軍落ちするなど苦しんだ

 04年5月10日、札幌での日本ハム戦の後にバレンタイン監督との面談で二軍降格を告げられる。95年に三星ライオンズでプロ生活が始まって以来、自身10年目に日本で味わう屈辱の二軍生活。小さいころから気持ちを出し過ぎるのは良くないと教えられてきた冷静沈着なスラッガーにしては珍しく、打てない自分に腹がたち、ベンチ裏でゴミ箱を破壊してしまうこともあったという。1年目は打率.240、14本塁打と大きく期待を裏切り、2年目も春季キャンプ終盤に外野フェンスにぶつかり突き指のアクシデントで調整が遅れ、開幕二軍スタート。それでもイ・スンヨプは、自身が韓国野球のパイオニアとして結果を残し、母国の若手選手たちも海外移籍にチャレンジできるようにしたいという大きな役割を意識していた。いわば、韓国球界を背負っていたのである。だから、どんな起用法にも耐えて黙々とプレーし続けた。

「プライドは、韓国に捨ててきたので関係ありません。試合に出られるのであれば、与えられた仕事をきっちりこなすだけです。去年(1年目)は気持ちに余裕がなかったので、そういうことを考えることもできませんでした。今年から捨てています。開幕もファームだったし……。そういう意味では、気持ちが軽かったです」

 七番であろうが八番であろうが、代打であろうが、左投手先発時にスタメンを外されようが、決して腐らず05年はチーム最多の30本塁打、82打点で31年ぶりの優勝に貢献。五輪やWBCの国際大会では、韓国代表の主砲として長く活躍したように短期決戦が得意で、阪神に4連勝した日本シリーズでも4試合で11打数6安打、3本塁打で優秀選手賞を受賞した。

巨人で完全に目覚めた“ライオン・キング”



06年のWBCでは韓国代表として出場し、大会最多の5本塁打をマーク[写真=Getty Images]

 しかし、やはり起用法に納得がいかず自由契約となり、06年1月19日に巨人移籍を発表。ロッテの提示額より低い推定1億6000万円での再出発である。春に開催された第1回WBCでは大会最多の5本塁打を放ち一塁手ベストナインに選出。移籍当初、巨人でポジションを争うライバルがジョー・ディロン……という、ほとんどのファンがフルネームを覚えていないズンドコ助っ人だった事もあり、開幕から「四番・一塁」で定着すると故障者続出のチームでひとり気を吐く。

 来日当初は苦労した左投手のスライダーやシュートの揺さぶりにも3年目には対応できるようになり、ホームランを意識しすぎると三振が増えるので打点と安打数を重視した。アジアの大砲は交流戦35試合で打率.360、16本塁打、29打点の大暴れで交流戦の2年連続本塁打王に。この期間、1試合2本塁打も三度マーク。ついでに6月11日のロッテ戦ではマリンスタジアムで2ランアーチを放つが、走者・小関竜也が三塁ベースを踏んでいないと判定されて幻のホームランになる珍プレーも(のちにスロー映像ではしっかり踏んでいるように見えたため物議を醸した)。なお、本件とは全然関係ないが、イ・スンヨプと同い年だった小関の娘・小関舞がアイドルグループ「カントリー・ガールズ」に加入するのはこの8年後のことである。


巨人1年目の06年にはロッテ戦で2ランを放つも“幻の本塁打”となる珍プレーも

 完全に目覚めたライオン・キングは8月1日の阪神戦で日韓通算400号を達成、さらに9回裏には虎のエース井川慶からその日2本目となるサヨナラ弾を放ってみせた。『月刊ジャイアンツ』06年9月号の表紙を堂々と飾り、「ホームランキングへGO!」という巻頭特集が組まれている。最終的にタイトルこそ韓国時代からのライバル、タイロン・ウッズ(中日)に譲ったが、143試合、打率.323、41本塁打、108打点、OPS1.003という素晴らしい成績で、オフには4年24億円の大型契約で巨人残留が決まる。しかし、翌07年こそ30発を打ちリーグVに貢献したが、30代を迎え故障にも悩まされ、日本シリーズで球団ワーストの12三振を喫した08年はわずか8本塁打。09年16本、10年5本と精彩を欠き、チーム内外から年俸6億円の大型契約への批判も相次いだ。オリックスへ移籍した11年も打率.201、15本塁打と復活はならず。8年間の日本生活で3球団を渡り歩き、異国の地で続くイチ助っ人選手扱いにすでにプライドはズタズタだったが、翌年から韓国球界復帰を選択して、41歳になる17年までプレーを続けた。

 NPB通算159本塁打、日韓通算では626号の金字塔。ショートバウンドの捕球が上手く柔らかい一塁守備も定評があり、日本時代はセ・リーグの一塁手連続無失策記録1225(当時)を樹立している。国際大会に滅法強く、韓国代表として全盛期の松坂大輔、石井弘寿、岩瀬仁紀らをことごとく打ち砕いた無類の“日本キラー”の印象も強い。

 そして、イ・スンヨプが日本でのキャリアハイとなる41発を放った2006年は、低視聴率に喘ぐ巨人戦地上波中継の激減が騒がれたシーズンだった。延長放送の打ち切り、BSやCSのみの放送、さらには深夜の録画中継移行まで。バブルが弾けるときは一瞬だ。何十年間にも渡り全国でプロ野球人気を広める役割を担い、ゴールデンタイムで当たり前のように視聴率20%以上を叩き出していた、ドル箱の巨人戦ナイター黄金時代が完全に終焉したのである。

 ある意味、イ・スンヨプは、常に日本中から見られていた“あの頃の巨人四番”の大トリを務めたわけだ。その男、巨人戦の地上波中継時代最後の四番打者である。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM