逆方向に伸びる弾道



甘いマスクで女性ファンからの人気も絶大だった

 巨人・坂本勇人が球史に名を刻む選手であることに異論はないだろう。高卒2年目に遊撃のレギュラーをつかみ、2016年にセ・リーグの遊撃で史上初の首位打者を獲得。20年は右打者で最年少の31歳10カ月で通算2000本安打を達成した。その坂本が尊敬する存在だったのが、遊撃を奪われる形になった二岡智宏(現巨人二軍監督)だ。「ミスター右中間」と形容された逆方向に伸びるスケールの大きい打撃で「天才打者」と称されたことも。全盛期の輝きは坂本に決して負けていなかった。

 二岡は広島の名門・広陵高を経て近大に進学。関西学生リーグで当時通算歴代1位の13本塁打をマークし、3年時の97年に春・秋のリーグ戦、大学選手権、明治神宮野球大会、社会人選手権優勝チームとのアマ王座決定戦と全ての大会を制して史上初のアマチュア五冠を達成した。大学No.1野手として注目を集め、広島、阪神、巨人が激しい争奪戦を繰り広げる中、逆指名によるドラフト2位で巨人に入団する。このときのドラフト1位は上原浩治。同期入団は中日の福留孝介、岩瀬仁紀、西武の松坂大輔、阪神の藤川球児、ロッテの小林雅英、里崎智也、広島の新井貴浩、横浜(現DeNA)の金城龍彦と多くの名選手が誕生した「黄金ドラフト」だった。

 新人の99年に川相昌弘から遊撃のレギュラーを奪い、126試合出場で打率.289、18本塁打をマーク。遊撃の守備は肩が強く、深いポジショニングから好守を連発した。打撃も逆方向の右に引っ張るような弾道の打球が伸びる。その打撃技術は他球団の選手も「二岡は天才。マネできないよ」と舌を巻いた。甘いマスクで女性ファンからも大人気だった。


00年には優勝を決める劇的なサヨナラアーチを放った

 記憶に残る一打が多いことでも印象深い。00年には9月24日の中日戦(東京ドーム)で右中間にリーグ優勝を決めるサヨナラアーチを放つと、遊撃で球団史上初の20本塁打以上を放った02年はシリーズ史上初の3戦連続猛打賞、第3戦で満塁本塁打を放つなど打率.474で日本シリーズMVPに輝いている。03年は全試合出場で打率.300、自己最多の29本塁打をマーク。当時の西武・松井稼頭央と共に「打てる遊撃手」の先駆者と言えるだろう。06年も全試合に出場し、4月30日の中日戦(東京ドーム)でNPB史上初の2打席連続満塁本塁打を含む3本塁打、10打点の大暴れ。6月8日のソフトバンク戦(ヤフードーム)で1961年の長嶋茂雄以来35年ぶりとなる「四番・遊撃手」に抜擢された。

 07年までのプロ9年間で積み上げた安打数は1099本。この時点で31歳。衰えは見られず通算2000安打も十分可能な数字だと思われたが、08年が野球人生の分岐点になる。開幕のヤクルト戦(神宮)で右ふくらはぎを肉離れして戦線離脱。7月中旬に一軍昇格するが。9月14日に右足首を捻挫して再び二軍落ち。自己最少の31試合の出場に終わった。遊撃で二岡の代役として出場し、チャンスをつかんだのが坂本だった。二岡は同年オフにマイケル中村、工藤隆人との交換トレードで林昌範と共に日本ハムへ移籍する。

日本ハムではケガに悩まされて



日本ハムでは代打で勝負強さを見せた

 日本ハムでは下半身の故障も影響し、常時出場できなかった。移籍初年度の09年は代打で打率.400、12年も打率.353と高度な打撃技術と勝負強さは健在だったが、13年は両ふくらはぎの不調に悩まされるなど36試合出場で打率.071、0本塁打と精彩を欠き、同年限りで退団。獲得に名乗りを挙げる球団がなかったため現役引退を決意した。

 プロ15年間で1457試合出場、打率.282、173本塁打、622打点、1314安打。プロ野球人生の前半はまばゆい光を放っていたが、後半は苦しんだ。だが、指導者人生でこの経験は大きな糧になる。引退後は巨人の二軍打撃コーチ、一軍打撃コーチ、独立リーグ・富山の監督、再び巨人に復帰して三軍監督、今季からは二軍監督に就任する。かつての天才打者は、「坂本の後継者」となる遊撃手の育成にも期待がかかる。

写真=BBM