長距離砲ながら高いミート力



04年、三冠王に輝いた松中の打撃

「平成唯一の三冠王」として、その名は後世に語り継がれるだろう。全盛期の輝きは「史上最強打者」の呼び声も。ダイエー、ソフトバンクで長距離砲として活躍した松中信彦だ。

 八代第一高で甲子園出場は叶わなかったが、社会人・新日鉄君津でアトランタ五輪に出場し、日本代表の四番で銀メダル獲得に貢献。1997年ドラフト2位(逆指名)でダイエーに入団する。当時はチームの低迷期で王貞治監督(現ソフトバンク球団会長)が就任し、変革期だった。松中は小久保裕紀(現ソフトバンク二軍監督)、井口資仁(現ロッテ監督)、城島健司(現ソフトバンク会長付特別アドバイザー)らとともに中心選手として常勝軍団の礎を築く。

 プロ3年目の99年に23本塁打を放ち、ダイエー初の日本一に貢献。その打撃技術は高度だった。ボールの下にバット入れて逆回転のスピンを与え、若干芯をずらすことにより、右翼のファウルゾーンに切れずに本塁打を量産した。左投手を苦にせず、長距離打者でありながらミート能力が高い。シーズン100三振を喫したシーズンは一度もなく、打率.324で首位打者を獲得した2006年は37三振だった。

 西武やオリックスの監督で対峙した野球評論家の伊原春樹氏は、「印象に残るのは、その内角打ち。体をうまく回転させてボールをスタンドまで運んでいた。簡単にはマネできない技術だろう。長距離砲であるのに打率を残し、三振も少ない。バットを強く振りながら、確実にボールにコンタクトする能力は驚異的だった」と語っている。

 04年に打率.358、44本塁打、120打点で三冠王を獲得。当時の本拠地・福岡ドームはホームランテラスと呼ばれる観客席が設置されていなかった。フェンスが高く本塁打を打つのが難しい球場を本拠地にこの成績は圧巻だ。松中は現役引退後に週刊ベースボールのインタビューで当時をこう振り返っている。

「99年以降、僕はチームの中心メンバーとなっていくわけですが、2003年にケガをしてしまいます。それまでの僕の打撃フォームはすり足でした。それで結果も出ていたんですけど、右ヒザを壊してしまい……。ちょうど選手会長になった年だったので『絶対1年間、グラウンドに立ち続けないといけない』と思いながら、ただ、右ヒザは悲鳴を上げている。どうしたらいいのかなというところで、左足1本で打つ練習をしたんです。痛くて踏ん張れなくてそれしかできなかったんですけど。すると、今までは体重移動して打っていたのが、軸足で回れるようになった。それで、04年もそのまま足を上げてみようと。本当に『ケガの功名』でした」

「ぜひ三冠王が出てきてもらいたい」


 05年も46本塁打、121打点で2冠王に。03〜05年に達成した3年連続120打点以上は史上初の快挙だった。06年1月に日本人最長の7年間の複数年契約を結ぶと、同年に日本代表の四番で第1回WBC優勝に大きく貢献。シーズンでも2度目の首位打者を獲得したが、10年以降は度重なる故障で出場機会を減らしていく。15年限りでソフトバンクを退団して他球団での現役続行を模索したが獲得球団がなかったため、現役引退を決断した

 19年間の現役生活で1780試合出場、打率.296、352本塁打、1168打点。通算1767安打で名球会入りはならなかったが、球史に名を残す強打者としての記憶は色褪せない。引退後は四国アイランドリーグplus・香川のゼネラルマネージャー兼総監督を務め、昨年はロッテの臨時打撃コーチで安田尚憲、藤原恭大ら若手の成長株たちを精力的に指導する姿が見られた。

 松中は三冠王を獲得したことについて、こう語っている。

「平成唯一の三冠王に関しては、両親と子どもたちが喜んでくれました。僕は正直、運だったと思うので。極端な話、イチロー君がいたら間違いなく三冠王にはなれなかったでしょうしね。一生懸命に野球をしてきて、野球の神様からのご褒美かなと思います。時代は変わりますが、ぜひ三冠王が出てきてもらいたい。出るたびに僕の名前も出ますしね」

「令和初の三冠王」が現れる日が楽しみだ。

写真=BBM