球界を代表するエースとして活躍した投手たちの通算勝利数を見て、意外に感じたことはないだろうか。今中慎二、斉藤和巳、井川慶、吉見一起はプロ通算100勝に届いていない。「もっと勝っていると思った」と感じるのは、全盛期の活躍が強烈だった証だろう。

キレ味抜群のボールを投じた左腕



93年には沢村賞を獲得した今中

・今中慎二(中日)
※NPB通算233試合登板 91勝69敗5セーブ、防御率3.15

 通算219勝をマークした同じ左腕の山本昌と共に1990年代の中日投手陣を支えた。細身の体躯から左腕をムチのようにしならせ、150キロ近い直球、100キロ台のカーブ、80〜90キロ台のスローカーブで打者をキリキリ舞いした。特にカーブは左打者から見て当たると思う軌道からストライクゾーンに吸い込まれ、外国人選手たちは「見たことのない球だ」と愕然とした。

 プロ2年目の90年に初の規定投球回に到達して6完投で10勝をマーク。93年は17勝7敗、防御率2.20、247奪三振で最多勝利、最多奪三振などに輝き、リーグトップの14完投で249イニングと審査項目をすべて満たして沢村賞を受賞した。翌94年も巨人との「10.8決戦」でリーグ優勝を逃したが、2年連続リーグトップの14完投で197イニングとひたすら投げ続けた。プロ8年目の25歳までに87勝を挙げたが、登板過多に体が悲鳴を上げた。その後は度重なる故障により5年間で4勝のみ。プロ13年間の野球人生を駆け抜けた。

勝利への執念を体現した投球スタイル



気迫あふれる投球も持ち味だった斉藤

・斉藤和巳(ダイエー、ソフトバンク)
※NPB通算150試合登板 79勝23敗、防御率3.33

 野球人生はケガとの闘いだった。入団以来、右肩痛に苦しんでいたが、プロ8年目の2003年に大ブレーク。当時プロ野球記録の16連勝を飾り、パ・リーグで1985年の佐藤義則以来となる20勝をマーク。最多勝、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞を受賞し、宿敵の西武から6勝を挙げてリーグ優勝、日本一の原動力に。05年も開幕から15連勝を飾るなど16勝1敗、06年も18勝5敗、防御率1.75で2度目の最多勝、最優秀防御率、最高勝率(.783)、完封数、初の最多奪三振(205)と「投手5冠」を達成した。

 1球ごとに雄叫びを上げ、勝利への執念を体現した投球スタイルは投手陣のお手本だった。150キロを超える直球は球速以上の体感速度を感じ、鋭く横滑りするスライダー、140キロ台の高速フォーク、緩急をつけたカーブと変化球の精度も高かった。絶対的エースとして大きな輝きを放ったが、規定投球回に到達したのは4シーズン。08年以降は右肩痛で一軍のマウンドから遠ざかり、リハビリの末に13年7月に現役復帰を断念することを表明した。

Vに大きく貢献した猛虎のエース



03年には20勝を挙げて阪神優勝の立役者になった井川

・井川慶(阪神、ヤンキース、オリックス、兵庫ブルーサンダーズ)
※NPB通算219試合登板、93勝72敗1セーブ、防御率3.21
※MLB通算16試合登板、2勝4敗、防御率6.66

「阪神のエース」で井川を連想するファンは多いのではないだろうか。高卒4年目の2001年に9勝をマーク。左腕から150キロを超える直球は球威十分でチェンジアップ、スライダーを織り交ぜて三振奪取能力が高かった。02年から5年連続13勝以上マークと不動のエースとして活躍し、03年には20勝5敗、防御率2.80で最多勝、最優秀防御率、最高勝率、沢村賞と投手タイトルを独占し、星野仙一監督の下で18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。この年はダイエー・斉藤和巳も20勝をマーク。両リーグから同じ年に20勝投手が出たのは1982年の広島・北別府学、日本ハム・工藤幹夫以来だった。

 27歳までに通算86勝をマークするが、06年オフにポスティングシステムでヤンキースに移籍以降は試練の日々が続いた。ヤンキース在籍5年間でメジャー通算2勝のみ。マイナー通算成績は107試合登板で36勝25敗1セーブ、防御率3.83と好調な時期があったが制球難を課題に挙げられ、09年以降の3年間はメジャーで登板機会がなかった。12年にオリックスに入団したが4年間で計6勝と白星が伸びずに退団。独立リーグ・兵庫ブルーサンダーズでプレーした。

正確無比のコントロールを誇った右腕



制球力と緩急を生かした投球術で相手を抑え込んだ吉見

・吉見一起(中日)
※NPB通算成績 223試合登板、90勝56敗11ホールド、防御率2.94

 通算与四死球率1.57と正確無比の制球力が武器で、同じ腕の振りからスライダー、シュート、フォークボール、チェンジアップを投げ分けて凡打の山を築いた。2008年に救援、先発でフル回転して開幕から8連勝を飾るなど10勝3敗10ホールドと頭角を現す。翌09年は16勝7敗で最多勝、11年に18勝3敗、防御率1.65で最多勝、最優秀防御率、最高勝率を獲得した。4シーズンでリーグトップの完封勝利数をマークし、28歳までに70勝に到達。投球テンポが良く、相手エースとロースコアの投げ合いでも白星をつかむ。黄金時代を築いた落合博満監督の「守り勝つ野球」でエースとして君臨した。

 パワーピッチャーではなく、制球力と緩急を生かした投球術で安定感抜群だったため、さらに白星を重ねるという見方が多かったが、13年に右ヒジ内側側副靱帯の再建手術(トミー・ジョン手術)と右ヒジ関節内クリーニング手術を受け、14年以降も度重なる右ヒジ痛で思うような投球ができなくなった。08年から5年連続2ケタ勝利をマークしたが、13年以降の8年間は16年の6勝が最多。20年限りで現役引退を決断した。

写真=BBM