南海時代は大阪球場を沸かせたクローザーにして、引退後は多くの選手を育て上げた名投手コーチが、恩師・野村克也監督、稲尾和久監督との秘話、現役時代に仲が良かった江本孟紀、門田博光、コーチ時代の落合博満、村田兆治ら、仲間たちと過ごした山あり谷ありのプロ野球人生を語り尽くす一冊だ。
不定期で、その内容の一部を掲載していく連載の今回が第4回である。
重圧の中で結果を出してこそプロだ
『酔いどれの鉄腕』表紙
今回は「第4章ロッテコーチ時代」より、落合博満との逸話を紹介する。ロッテ、中日で選手とコーチ、その後、中日では一軍監督、二軍監督の関係になった佐藤さんの盟友だ。
ロッテには大洋時代に一発を浴びた落合博満もいた。あいつの6年目かな。まだ30歳になったばかりだったけど、前の年まで3年連続首位打者で、1982年は三冠王にもなっていた。確か、その年のオフに信子さんと結婚したと思うけど、そのときはまだ独身。甘いマスクだったからモテてたよ。
キャンプ中の2月14日はバレンタインデーだけど、ロッテは親会社がお菓子メーカーということもあって、選手にチョコを贈るキャンペーンをしていたみたいだね。チームが人気ないわりにチョコがたくさん届いた。もちろん、それは選手だけで、俺は確か娘と知り合いから28個だった。
でさ、落合に「お前、いくつチョコもらったの?」と聞いたら「4つぐらいかな」って言うから、「天下の落合が大したことないな、俺だって28個だぜ」とからかったんだ。
何か不思議そうな顔をして、そのときは何も言わなかったけど、あとで実際には100個くらい入った箱が4つだって聞いた。当時のロッテは、選手に箱でまとめて渡していたんだ。「それを早く言わんか!」だよね。あれは恥ずかしかったな。
当時は、リーや有藤通世さんがいたんで、落合が野手のボスというわけじゃない。四番も打っていたけど、完全に定着してたわけじゃなかった。
2人はいい年になっていたし、稲尾さんは落合を四番にしっかり定着させようと思っていたんだけど、あの年の落合は前半まったく打てなくてね。ほかのコーチは「落合を六番にしましょう。このままじゃチームが最下位になってしまいます」と言っていた。
それでも稲尾さんは「大丈夫。そのうち打つから」と変わらず四番で使い続けたら、ほんとに打ち始めた。神様の眼力ってすごいね。
(中略)
当時の落合は、シーズン前に「三冠王宣言」をしていた。生意気とか言われたけど、俺は好きだった。
言葉に出せば自分への重圧になる。実現しなきゃ恥ずかしいし、いろいろ言われるしね。けど、ファンが喜んでくれるでしょ。「落合が三冠王を狙うと言ってるけど、どうなるのかな」って。そういう中で戦い、実現させるのが、プロのすごみだと思っている。
そいつが口だけなら別だよ。「またバカなこと言ってるな」で終わる。でも、本気かどうかは仲間だから見てりゃ分かる。グラウンドでだらだらしてるように見えても、マスコミの見てないところでバットを振ってるのが、落合だったからね。
第4章「ロッテコーチ時代」より。