東北出身、東北の球団に所属している責任感をずっと持ち続けている。10年は節目、一区切りとは考えていない。被災地への想いを片時も忘れずにバットを振り続けるプロ16年目の内野手が、その胸の内を明かす。
構成=阿部ちはる 写真=井沢雄一郎、BBM


東北、岩手出身者として、被災した方々とずっと向き合ってきた

もう一度、本気で野球を


 東日本大震災が発生した当時、チームはオープン戦の最中だった。岩手県普代村出身の銀次は状況をすぐにはのみ込めず、不安な日々を過ごしていたという。さらに被災地で目にした光景は、現実として受け入れるのに時間が掛かったほどの衝撃だった。その出来事が当時23歳と若かった銀次を大きく変えることとなる。被災地に足を運び、ファンと触れ合う中で感じた思いや強い決意とは──。



──震災当時は試合中でした。そのときの状況や心境を聞かせてください。

銀次 オープン戦がいったん中断になり、東北で大きな地震があったことを伝えられました。家族に連絡をしてくれと言われ、その時点で試合は中止。僕は運よくすぐに家族と連絡が取れました。ですが正直、自分が直に体験したことではなかったので、どれだけひどい状況なのかは全然分からなかったですね。その後、ニュースなどで状況を知りました。

──仙台に帰れない日々の中で、どんなことを考えながら過ごしていましたか。

銀次 相当ひどい被害を受けたというのはテレビなどで分かったので、すごく心配していました。帰りたいけど帰れず、毎日毎日心配で仕方なかったです。

──約1カ月後の4月7日に仙台に戻れましたが、そのときの思いは。

銀次 やっと帰れたという安心感はありました。ただ……、被災地に行ったのですが、自分が思っている以上の被害を受けていて、言葉にならないというのはこのことか、と感じました。そして、これからどうなるんだろうなと……。本当に元に戻るのか、戻れるのかなという思いが正直ありましたね。それほどまでの被害でしたから。(避難所まで)行く途中にはがれきの量がすごかったので、それを目の当たりにしてしまうと、元どおりになるのかなと。本当にこれが現実に起きているのか、全然分からなかったです。

──避難所での生活を強いられている方々と触れ合う機会もありました。

銀次 「来てくれてありがとうね」と、すごくたくさん言われましたね。でもそのときは……、自分たちがどうにかしてあげなくちゃいけないというか、ちょっとでも、野球で。その思いはすごくありました。自分たちにしかできないので、もう一度、野球で見せていけたらいいなという思いはすごくありました。

──プロ野球の開幕が延期になり、野球をやるべきなのか、やるべきではないのかということは選手間でも監督、コーチ、スタッフの間でもいろいろと意見があったと思います。銀次選手の考えは。

銀次 自分たちには野球をすることしかできないから、野球でどうにかしたいというのはすごく感じていました。だから僕は早くやりたかったです。間違いなく見てくれる人はいるから。必死になってやっているところを見てほしいという思いは強かったですね。

──当時はなかなかチームが一つになれない状況の中、星野仙一監督(当時)が強い言葉でチームを引っ張っていたと思います。印象に残っている指揮官の言葉はありますか。

銀次 「俺たちが東北を元気にしようぜ」ということは常に言っていたので、自分もそういう気持ちになっていました。

──当時は23歳と、とても若かったです。気持ちの面で大きく変化した部分も多かったのでは。

銀次 本当にもう一度、本気になって野球をやろうという気持ちでした。東北出身ですし、やっぱり、自分がどうにかしたいという思いは強くありましたね。

ただただ打つのみ



2013年に日本一を勝ち取ったときのように、もう一度、ファンの笑顔が見たいと強く望んでいる

 2012年からレギュラーをつかみ、チームに不可欠な存在となっていった銀次。飛躍のきっかけの一つとなったのが、東日本大震災だったのだ。その光景や、被災者への思いが消えることはない。その意志があるからこそ、つらくてもバットを振り続ける。10年がたった今も「変わらずに思い続けている」と、東北への思いは強い。優勝の喜びを知るからこそ、そのときの笑顔を見ているからこそ、優勝への意識も誰よりも高い。



──11年は5位とチームとしては悔しい結果になってしまいましたが、12年から銀次選手自身は出場数も増えました。震災をきっかけに変わっていった部分もあったのではないでしょうか。

銀次 間違いなく、震災が起きてから自分自身で変わろうと思ったし、実際に変わりました。もちろん練習量も相当増えましたし、本当にしんどかったですけど、ただただ、ずっとバットを振っていましたね。やっぱり優勝しなきゃ喜んでくれないと思うので、優勝したいという気持ちがより強くなりました。

──その後の銀次選手の言葉を聞いていても、被災者を思うコメントや力強い言葉が多くなったように思います。

銀次 11年くらいからはずっと気持ちは変わらず、自分がどうにかしなければと常に思いながら野球をしています。

──13年にはリーグ優勝、日本一を成し遂げました。中心メンバーとしてつかんだ優勝は格別だったのでは。

銀次 これで少しは元気を取り戻してくれるのかなという思いはありましたね。(被災した方々を)優勝して喜ばせたいという思いがずっとあったので。でも、どちらかと言えば……、安堵のほうが大きかったかな。まずは、“よかった”という気持ちが強かったかもしれないですね。

──13年はまだ被災地も完全に復旧しておらず、避難所で生活している方も多くいました。そんな方々が喜んでいる姿を報道などで目にしたときには、どういった思いでしたか。

銀次 喜んでいる姿を見ると、やっぱり幸せですね。被災地の方が喜んでいる姿、笑顔が自分自身を強くしてくれますし、その笑顔を見ると、もっともっと頑張らないといけないと、強く思いますね。

──今年は震災から10年の節目と言われますが、銀次選手は「10年ということではなく、いつも思っている」と話していましたね。

銀次 自分自身は1試合1試合、思っていますよ。ホントに。1試合1試合、必死でやろうと思っているし、自分のヒットでちょっとでもみんなが元気になればいいなと、常に思っています。

──毎年、被災地に足を運ぶなど、街が変わっていく様子も見ている中で感じると思います。

銀次 当時を考えたら、やっぱりきれいにはなっていますよね、少しずつ。きれいになっているし、自分が被災地に行っても受け入れてくれますし。「来てくれてありがとうね」とすごく言っていただけるので、また行きたいと思うんです。またオフになったらいろいろなところに行けたらいいなと。ていうか、行きます!

──地元ファンも、東北出身の銀次選手の活躍を期待しているはずです。それを踏まえて、今季に懸ける思いは。

銀次 たくさん活躍して、もう一度笑顔を届けたいなという気持ちはあります。そのためにもしっかりアピールして、バンバン打てればいいかなと。若い選手にはまだまだ負けないつもりでいますし、ただただ、必死にやるだけです。そして優勝し、日本一になり、もう一度、皆さんの笑顔を見たいですね。そのためにも僕は、ただただ打つのみです。

──プロ野球選手、野球界ができることはどういったことでしょうか。

銀次 勝って喜ばせることができる。僕たちにできることはそこなので。勝利を届けるということが一番だと思います。

PROFILE
あかみない・ぎんじ(赤見内銀次)●1988年2月24日生まれ。岩手県出身。174cm78kg。右投左打。盛岡中央高から2006年に高校生ドラフト3巡目で楽天に入団。11年にイースタン首位打者に輝くと12年途中から二塁の定位置を確保。13年には正一塁手としてリーグ優勝、日本一に貢献した。19年に通算1000安打&1000試合出場を達成。通算1116試合、1150安打、28本塁打、441打点、30盗塁、打率.292