1年半前、中堅出版社の編集者(30代、女性)が打ち合わせの際に言い始めた。

「今の上司は、前職で私が周囲との人間関係にあつれきがあったことを知っていた。ある日、上司と1対1で人事評価の面談をしたときに、『君は前職でも同じトラブルがあっただろう?』と話す。その内容は前職の数人しか知らないはず。私の過去を調べた気がする」

女性の見立てが事実と言えるのかどうかはわからない。だが、会社が特に中途の採用試験において正社員を雇う際に、何らかの形で受験者の過去を調べるいわゆる「前歴照会」は時折耳にする。

今回は、かねてから様々な噂が飛び交う「前歴照会」の裏側にアプローチをしてみたい。(ライター・吉田典史)

●ある大手企業の2000年前後の採用でおこなわれていた実態

まず、雇う側の考えを知りたい。大手教育教材制作販売会社の元役員(72歳)に聞いた。

「中途採用の場合は、入社後に双方(会社と本人)にとって不幸なことになる可能性は新卒よりは高い。過去に勤務経験があるのだから、そこを調べずして採用すること自体に無理がある。

2000年前後、最終面接の前に人事部の部長と私(当時は本部長)の2人で受験者数人を調べた。その時点で面接(3次面接)に残っていたのは10人前後。配属予定部署の本部長である私が特に採用したい人を4人選び、人事部長に伝えた。

それを受けて部長が4人の前職の人事部に電話をして事情を話し、面談を求めた。断ったのが1社で、承諾した会社が3社。数日以内に私と部長で3社に伺い、1時間ほどの時間をもらった。

聞いたのは、本当に在籍していたか否か、入社と退職の年月日。退職の理由、在籍時の仕事の様子、人間関係、素行、勤務態度。これらの点で3人の受験者は問題がなかった。うち2人を『採用を強く希望』と人事部に伝えた。最終面接後に、2人が内定となった」

●「個人情報保護法」が前歴照会の歯止めになった

大手通信会社で人事課長を経験し、現在、グループ会社の役員の男性(58歳)も人事部に在籍中、前歴照会をしたことを認める。

「人事課長の指示があり、中途採用で内定を出す可能性が高い受験者の過去を調べていた。調べるのは、最終面接の前。社長や役員が並ぶその面接の前に、問題がある人材か否かを調査する。

方法はいくつかあり、1つは以前に勤務した会社へ伺い、直接会う。2つめは電話で先方の会社の人事部へ連絡し、話を聞く。3つめは信用調査機関のルートを使う。これらの使い分けは、ケース・バイ・ケース」

調べるポイントは、次のとおりだった。特に入社と退職の年月日。ここ数年の会社の勤務態度、素行。退職理由。私生活は、信用調査機関を通じて金融機関からの借入などを中心に調べていたようだ。経歴に詐称や素行、退職理由に問題がない限り、最終面接には出していた。

この記事で体験談を語ってもらった2人に聞くと、前歴照会にはターニングポイントの時期があったようだ。それが、2003年(平成15年)に公布された「個人情報の保護に関する法律」(以下「個人情報保護法」)。この法律が制定された背景には、情報化の急速な進展で個人の権利の侵害の危険性が高まったことなどがある。

2003年前後から、2人は「前歴照会するのが難しくなった。依頼しても、ほとんどの会社が応じなくなった」と明かす。その理由として同法23条を挙げる。23条では、あらかじめ本人の同意を得ないで、他の事業者などの第三者に個人データを提供してはいけない。ただし、一定の条件に合致する場合は、本人の同意を得ずに第三者に提供することができるとなっている。

これを前歴照会に置き換えると、受験者本人の同意がない場合、過去に勤務した会社は前歴照会をしてきた会社に情報を提供してはいけないことになる。確かに、この条文を1つの理由に前歴照会が少なくなったとみる弁護士や社会保険労務士は筆者が知る範囲でも10数人はいる。

●介護施設では虐待防止のために実施するケースも

だが、これらの法律面の課題をクリアしたうえで前歴照会を今も続ける会社や団体はある。例えば、介護施設、認知症グループホームを運営する医療法人はホームページで職員の採用時に本人の同意を取ったうえで、前の職場に前歴照会を実施していると公にする。全国の介護施設内で職員による虐待が増えているが、それを未然に防ぐ一環として行うのだという。

これに近い話を筆者は2018年の取材で聞いた。前職の福祉施設で知的障がい者に暴行を加え、退職になった男性が中途採用を経て10年前にある施設に入職してきた。男性はこの施設でも同じことを繰り返した。注意指導や処分を繰り返しても、一向に改めようとしない。やむを得ず、解雇にしたという。この施設はこれ以降、本人の同意を取ったうえで前の職場に前歴照会をするようになったようだ。

●弁護士「受験者が納得していることが必要」

和泉貴士弁護士も、採用時に前歴照会をするケースは個人情報保護法成立以前に比べると少なくなっているのではないか、と語る。その歯止めとなっているのが、同法の23条と民法709条の不法行為(プライバシー侵害)による訴訟リスクのようだ。前述の介護施設、認知症グループホームを運営する医療法人や福祉施設のように前歴照会をするならば、少なくとも次の点を考慮する必要があると指摘する。

「その前歴照会を社会的な価値観や常識からみた場合、必要性があるか否かは常に問われなければいけない。そうでなければ、企業が求める人材が応募しなくなる。職員が過去の勤務先で虐待などに関わったかどうか、を確認するのは一定の必要性がある、と私は思う。ただし、この場合でも受験者のあらゆることを調べるのが許されるわけではない。何を調べるのか。そもそもなぜ、調べるのか。前職の誰に確認するのか。これらが明確に決められ、受験者が納得していることが必要。

例えば、以前勤務した会社で不倫を原因として退職した男性がいる。男性が再就職しようと中途採用試験を受験した会社は前歴照会をしたようだ。そして、不倫を理由に不採用とした。私には、受験者のこういう私生活の側面まで調べる必要性や社会的に説得力があるようには思えない。男性の同意を欠けばプライバシー侵害にあたり、この前歴照会は訴訟リスクが高い事例と言える。受験者との間に信頼関係を作れずに早期に離職してしまう可能性も高い」

様々な意見があるのだろうが、筆者が知る範囲では前歴照会に不満や疑問の声は少なくない。それは無理もない。就職を希望する(した)会社が知らないところで、誰かわからない人から情報を得る。その内容が事実であるのかすら疑わしい場合があるのに、それを判断材料の1つにして採否を決める場合もあるのかもしれない。ここに、当事者としての無力感や不信感があるのではないか。前述の医療法人や福祉施設のような深刻な問題がある以上、採用時に受験者を厳選してリスクを防ぐことは大切だ。だが、冒頭の女性社員のような人たちがいることも忘れてはならない。