日本全国に数万あるとも言われるお城ですが、中でも山城は、普段何気なく通っている道や身近な場所にその遺構があることも多く、見過ごしがちです。機動力の高いバイクで往く城跡巡り、今回は神奈川県大和市の「深見城」を訪れてみました。

生活の身近な場所に、当時の構造を想像できる遺構があった

 神奈川県大和市には境川という河川があり、これに面する台地に築かれたのが「深見城」です。川沿いの歩道からこの台地を眺めると、まさに急峻な崖。さほど広い山ではありませんが、天然の要害に守られているという面から、なるほど山城向けの土地だということがわかります。

「天竺坂」の入り口には「深見城跡」の案内板もあり、アクセスは良好。南側は一見平坦な地に見えるが、反対側は急峻な崖となっている
「天竺坂」の入り口には「深見城跡」の案内板もあり、アクセスは良好。南側は一見平坦な地に見えるが、反対側は急峻な崖となっている

 城跡は「大和市北部浄化センター」の東側に位置しており、そこをバイクで目指しました。案内板もあり、迷うことなく到着。まず目に飛び込んできたのは「天竺坂(てんじくざか)」という小道でした。そこに建つ石柱には次のように記されています。

「深見城築城の際に作られた空堀にあたる道。この坂と交差する南北方向の道は鎌倉古道と呼ばれ、市域では公所から堺川右岸を川沿いに南下し、藤沢宿(藤沢市)に至り、東海道に合流していた古道です」

 空堀(からぼり)とは中世の城によく見る水のない堀のことで、敵の侵入を防ぐためのものです。その堀を道としても機能させていたということでしょう。天竺坂を歩いてみると、左右両面とも高い崖になっており、どこからでも弓矢や鉄砲を仕掛けられそうな、まさに袋の鼠状態で恐怖感があります。

空堀に設けられた「天竺坂」は、かつては藤沢まで繋がっていたという古道。左右は高い山の斜面で威圧感を覚える道だった
空堀に設けられた「天竺坂」は、かつては藤沢まで繋がっていたという古道。左右は高い山の斜面で威圧感を覚える道だった

 気を取り直して平地となる郭(くるわ)部分を散策します。この辺りはつる植物の「ツタウルシ」や「カエンタケ」など、有毒な植物やキノコが生育しているらしく、注意書きをしっかり見て慎重に歩きます。

 城跡の散策は城の構成、いわゆる「縄張り」を案内板で確認してから歩くとイメージが湧きやすいです。「深見城跡」の案内板には次のように記されています。

「深見城跡は、堺川に面した台地上に築かれています。北側から東側は切り立った急崖となっており、境川との比高差は15m位あり、天然の要害となっています。西側は天竺坂の大規模な堀割り、そして南側は平坦地形を加工して曲折を多用した二重の堀と、土塁構造が密接に連携した東西2つの虎口(門・出入り口)などを構築し、要害地形を形成しています。この縄張り構造は歴史遺構上、高い価値を持つものです。

 発掘調査の成果から、この城の利用は14世紀末頃より16世紀末頃までの年代幅の中にあることがわかりました。一方、現在の城跡の構造をみると、軍学による城制に整合することから16世紀戦国時代と思われます」

城跡内を歩くと、複雑に折れ曲がった帯状の曲輪であったことが分かる。今でこそなだらかな斜面だが、当時は明確な郭の間をクネクネと通らせる、まさに防御力抜群の山城であったことが想像できる
城跡内を歩くと、複雑に折れ曲がった帯状の曲輪であったことが分かる。今でこそなだらかな斜面だが、当時は明確な郭の間をクネクネと通らせる、まさに防御力抜群の山城であったことが想像できる

 歴史の詳細は不明ですが、一説によると室町時代、現在の横浜の土豪である山田伊賀守経光氏による築城とされていますが、その後、戦国時代は北条氏による砦として考えられているようです。

境川沿いの道から見上げた深見城跡は、まさに急崖。川と崖という天然の要害に守られている側面も見ることができた
境川沿いの道から見上げた深見城跡は、まさに急崖。川と崖という天然の要害に守られている側面も見ることができた

 実際に歩いてみると、主郭部分と東西の虎口は明確にわかりました。とくに東側の土橋はしっかり残っています。森林化され、また風化により地形が明確ではなくなってしまっているものの、複雑に折れ曲がった帯曲輪(おびくるわ:帯状に長く作られた区域)であることもわかり、城主の防御へのこだわりをも感じさせる城跡でした。