二輪自動車や楽器作りなどで知られるヤマハですが、その歴史は1887年の創業から約130年に及びます。どのようにして現在の地位を築いてきたのでしょうか。過去の代表作とヤマハの歴史を振り返ります。
世界を代表するメーカー「ヤマハ」の黎明期と代表作とは
現在の国内バイク4大メーカーの一つであるヤマハ。その創業は130年以上前に遡り、創業者の山葉寅楠氏によって、静岡県浜松市に「合資会社山葉風琴製造所」が設立されました。

創業当初はバイクではなく、オルガンを製造する会社からスタートしています。山葉寅楠はもともと、医療器具や時計などの機械器具を修理する技術者でした。創業の2年前の1887年に、浜松尋常小学校の外国製の高級オルガンの修理を手がけたことがきっかけとなりオルガン製造を開始。修理によってオルガンの構造を知ることになり、翌1888年に日本ではじめて本格的なオルガン製造に成功します。
1891年に出資の引き上げにより一度解散するものの、河合喜三郎氏の協力により「山葉楽器製造所」を設立。その後、1897年に資本金10万円で「日本楽器製造株式会社」に改組し、初代社長に就任しました。
ほどなく、オルガンのほかにピアノなども手がけるようになり、楽器メーカーとして業績を伸ばしていきました。終戦の2年後に、楽器の製造を再開しましたが、1950年に日本楽器の4代社長として川上源一氏が就任し、大きな転機を迎えます。

実は戦時中、日本楽器は楽器づくりの技術が認められ、国から戦闘機のプロペラ製造を要請され、さらに、エンジンの試作もおこなっていました。そこで川上源一は、戦後使われなくなったプロペラ製造の工作機械と、その技術を用いて何かできないかと考えをめぐらせたといいます。
その結果、プロペラの工作機械をバイクのエンジン造りに活用することを思いつきます。そもそも、川上自信が無類のバイク好きだったのも、理由のひとつだったそうです。
そしてさっそく翌年から、浜松工場にてバイク事業をひそかにスタート。まずはバイクの本場であるヨーロッパ各国への視察をおこない、メーカーの工場やたくさんの製品を調査しました。
当時の日本では、200社ほどのバイクメーカーが乱立し、しのぎを削っていました。しかし、後発であったにもかかわらず、川上は「品質にこだわれば必ず勝機はある」と自信をのぞかせます。

川上は、ドイツDKW社の 「RT125」を参考に、1954年から本格的に1号機の試作に乗り出します。手探りの状態から試行錯誤を繰り返し、開発スタートから約8か月という驚異の早さで完成。そして1955年2月、第1号機となる「YA-1」が世に送りだされることになったというわけです。
この頃のバイクは実用車としてのイメージが強く、黒一色のデザインが常識でした。そんななかYA-1は、茶褐色とアイボリーのツートンカラーでデザイン性を重視。そして本家RT125よりも1速多い、当時では異例の4速ミッションを採用し、スリムなボディとその配色から「赤とんぼ」の愛称で親しまれました。
しかし、発売当初は楽器屋としての販売であったため、認知度も低く販売は苦戦することになります。また、大卒の初任給が1万円ほどの時代に、13万8千円という価格も足かせとなりました。
そんななか、日本楽器からモータサイクル製造部門が分離独立し、同年の1955年7月1日に「ヤマハ発動機株式会社」を設立。社長は川上源一が兼務し、資本金3000万円、月産目標200台、従業員150人ほどの規模からスタートしました。

そして、社運を掛けて同じ月に開催される、第3回富士登山レースに出場を表明します。経験がまったくないヤマハは、下馬評をくつがえすため現地に滞在し、夜を徹してテストを重ねレースに全力を注ぐことに。その結果、YA-1は125cc部門で見事優勝を飾ります。さらに、10位中7車が上位を占めることになり、デビュー戦にして圧倒的な実力を見せつけたのです。

そんな勢いにのって、同年11月に開催された第1回浅間高原レースにも参戦し、125ccクラスでまたしても上位を独占。これにより、YA-1の性能の高さが認知されることになり、その名を全国に知らしめることになりました。こうしてレースで好成績を残し、その性能が世の中に認められたことで、着実に販売台数を伸ばしていったのです。
その後、ヤマハ発動機設立からまもなく、好景気とバイクブーム到来の波にのって事業は繁栄していきます。

翌1956年には、YA-1の上位機種となる「YC-1」を発売。高いデザイン性で注目を浴び、後発だったヤマハのブランドイメージを押し上げたモデルといえます。

さらに1957年には、ヤマハ初の2気筒エンジンを搭載した「YD-1」を発売。実用車が一般的だった当時のバイクに、スポーツのイメージを世間に植えつけました。

音楽メーカーからはじまり、そのピアノを造る技術が、ヤマハのバイク開発の原点になったといえます。ヤマハ発動機の初代社長である川上源一の独創的な発想がなければ、ヤマハが誇る稀代の名車は生まれなかったかもしれません。
無謀な挑戦といわれた国内のレースで、立て続けに優勝したことで、徐々に事業が軌道に乗りはじめました。また、斬新なデザインとカラーリングに加え、高品質なバイク造りにこだわったことが、後発のヤマハが成功した要因といえるでしょう。