2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の影響もあり、家康公ゆかりの地が再び注目を集めています。徳川家康は29〜45歳までの17年間を「浜松城」で過ごしたと言われ、現在も浜松市に残る本丸跡には、「野面積み」と呼ばれる荒々しい石垣が当時の面影をそのままに残していました。

徳川300年の歴史の土台を築いた場所

 2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の影響もあり、家康公ゆかりの地が再び注目を集めています。徳川家康は29〜45歳までの17年間を「浜松城」で過ごしたと言われ、現在は「浜松城公園」として残されている史跡をスーパーカブで訪れました。そこには「野面(のづら)積み」と呼ばれる荒々しい外観の石垣が、当時の面影をそのままに残していました。

昭和33年に天守閣が再建された「浜松城」。荒々しい石垣には往時の面影を見ることができる。城内では歴史的な資料や武具が展示されている
昭和33年に天守閣が再建された「浜松城」。荒々しい石垣には往時の面影を見ることができる。城内では歴史的な資料や武具が展示されている

 姉川(あねがわ)、三方原(みかたがはら)、長篠(ながしの)、小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い等、有名な戦はこの「浜松城」を拠点としていた時代に起きました。いずれも家康にとって試練の連続だったと思いますが、とくに武田軍に大敗を喫した「三方原の戦い」では、命からがら現在の「浜松城」近隣の「引間城(ひくまじょう)」に逃げ帰ったと言われています。

 幾多の試練を乗り越えた家康は、その後天下人へと上り詰めて行くわけですが、この頑強な「浜松城」の石垣は、当時の家康の屈強な土台そのものを象徴しているかのようでした。

約400年前の築城時の面影を残す石垣を眺めながら天守閣へ向かう。荒々しいながらも特殊な技巧により、強固な機能を持つ
約400年前の築城時の面影を残す石垣を眺めながら天守閣へ向かう。荒々しいながらも特殊な技巧により、強固な機能を持つ

 解説板によると、発掘された石垣は「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる特殊技工集団が得意とした「野面積み」と呼ばれる手法が用いられているとのこと。これは野面石(自然のあるがままの石)を使い、ほぼ加工せずに積む方式です。

 その外観は荒々しく見えますが、石の表面と裏面を揃えていたり、背後から「飼石(かいいし)」と呼ばれる石を入れて固定したり、さらに内側には「栗石(くりいし)」と言う小さな石を大量に詰めて強化するなど、技巧を凝らしたものだそうです。

天守門の石垣正面には、左右に「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる巨石が用いられている。城の壮大さや城主の権力を見せるための技法らしい
天守門の石垣正面には、左右に「鏡石(かがみいし)」と呼ばれる巨石が用いられている。城の壮大さや城主の権力を見せるための技法らしい

「野面積み」を間近に見ると、大きな石の隙間に「間石(あいいし)」と言う小さな石を詰めているのが分かります。これは石垣を成形するだけで強化する効果は無く、間石が抜け落ちる程度の方が頑丈なのだそうです。

 ちなみに、家康がここを拠点としていた時代にこれらの石垣や天守は存在しておらず、土塁(どるい)に囲まれた曲輪(くるわ)に板葺きの屋敷が建てられていたと考えられているようです。家康が「江戸城」に移った後、堀尾吉晴(ほりおよしはる)が1590年頃に石垣や天守を建築したと言われています。

1981年に建てられた、若き日の徳川家康公の銅像。右手に持っているのは「勝草」というめでたいシダとのこと
1981年に建てられた、若き日の徳川家康公の銅像。右手に持っているのは「勝草」というめでたいシダとのこと

 現在の天守閣は昭和33年に再建されたもので、三層四階構造となっています。これで当時の天守閣を縮小したとのことなので、実際はかなりの規模だったことでしょう。

 いまも「浜松城公園」として市民や観光客の憩いの場となっている「浜松城」は「出世城」とも呼ばれ、この場に立ってその光景を眺めていると、力強さを感じるのでしした。