NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康が体験した数々の困難やピンチが描かれています。「三大危機」(三河一向一揆、三方原の戦い、伊賀越え)にはカウントされていない「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」もまた、家康にとっては決死の撤退を強いられた危機でした。その舞台となった「金ヶ崎城跡」をバイクで訪れました。
月見する余裕など無く素通り?
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康が体験した数々の困難やピンチが描かれています。「三大危機」(三河一向一揆、三方原の戦い、伊賀越え)にはカウントされていない「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」もまた、家康にとっては決死の撤退を強いられた危機でした。その舞台となった「金ヶ崎城跡」をバイクで訪れました。

1570年4月20日、織田信長が反将軍派の後ろ盾とみた朝倉義景(あさくらよしかげ)の討伐のために、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)、徳川家康、明智光秀らを率いて出陣しました。信長の軍勢は3万とも言われています。
23日には福井県美浜町の「国吉城(くによしじょう)」に到着し、25日には家康が「金ヶ崎城」に隣接する「天筒山城(てづつやまじょう)」を半日で落とし1300人以上を討ち取ったとされています。
26日には「金ヶ崎城」を藤吉郎が開城に成功させて敦賀(つるが)の占領に成功します。さらに奥へ攻め込むために先鋒を務めた家康は、木の芽峠を越え、朝倉の本拠地である一乗谷(いちじょうだに)へ一気に攻め込むつもりでした。
ところが……!

信長と同盟を結んでいた浅井長政(あざいながまさ)が裏切り、朝倉へ寝返ったのです。浅井は信長の妹、大河ドラマでは北川景子さんが演じる「お市」の婿です。信長にとっては想定外のことだったに違いありません。浅井と朝倉に挟み撃ちにされる危機を悟った信長は、家康に知らせもせずに撤退してしまいました。
さて、最も危険な地帯まで攻め込んでいた家康は、もう決死の撤退をするしか生き残る道はありません。藤吉郎もまた、危険な状態です。殿(しんがり)を務めたのは藤吉郎だ、家康だ、と説があるようですが、どちらにとっても相当危険な状態であったことは間違いありません。
信長、家康、秀吉、光秀のうち、誰か1人がこの時に討ち取られていたら、日本の歴史が変わっていたのです。

バイクで訪れた「金ヶ崎城跡」は、福井県敦賀市金ヶ崎町にある古い山城です。ここには南北朝時代にも激戦と悲話が残されています。
1336年、足利尊氏(あしかがたかうじ)が光明天皇を擁立して室町幕府(北朝)を設立。後醍醐天皇の南朝は、新田義貞(にったよしさだ)と後醍醐天皇の皇子、尊良親王(たかよししんのう)らと「金ヶ崎城」に籠城しました。1337年には落城し、尊良親王らはここで自害したと伝えられています。
さて、話は戦国時代に戻り、決死の撤退で藤吉郎が「金ヶ崎城」に残り殿を務めたというのが定説で、城跡の解説板にもそのように記されていました。ただし、これはNHKのTV番組『英雄たちの選択』の中で言及されていたことですが、家康は「金ヶ崎城」を素通りし、越前と若狭の国境にある「国吉城」へ逃れたとされています。
その理由は、近年の研究による赤色立体地図を見る限り、「金ヶ崎城」には戦国時代の近代防御設備に乏しい南北朝時代のままであり、籠城には適さない山城だったから。したがって藤吉郎もまた、ここで籠城をする気はなかったのだろうと思われます。さらに10kmほど先にある「国吉城」に何が何でも退却することが、助かるための唯一の条件でした。

今回は「金ヶ崎城跡」と「国吉城跡」の両方をバイクで訪れ、それぞれ歩いて登城してみたところ、その難易度は段違いでした。
「国吉城跡」は登山に多少慣れている体でも正直キツい急勾配だったのですが、「金ヶ崎城跡」は階段や歩道が整備されているとは言え、過去に訪れた山城の中でも楽に本丸にたどり着いてしまいました。
日本海に囲まれたかつての美しい「金ヶ崎城」の趣は、周囲の海岸を埋められた今でも十分に感じられ、爽やかな風を受けながらゆったりとした気分になれました。南北朝時代の本丸とされている箇所の断崖は「月見御殿」と呼ばれ、戦国時代も武将が月見をしたと言われています。
とは言え、籠城には適さなかったであろう「金ヶ崎城」は、大ピンチを迎えていた家康にとっては素通りするしかなかったようです。