1960年代末期、2ストロークエンジン優勢のモトクロスレースに参戦したいホンダ開発陣有志は、社内に2ストロークをタブーとする風潮がある中、秘密の開発車「335」で全日本選手権に参戦しました。本田宗一郎の「やる以上は世界一の物を作れ」という一言で開発が承諾され、その約束を果たすための第一歩となったマシンが「RC335C」です。
「高性能4ストロークエンジン=Honda」が本気で作った2ストロークマシン
ロードレース、モトクロス、トライアルが二輪車の世界選手権の3大タイトルと言われていますが、日本でのモトクロスは1950年代後半から60年代前半にかけて全国大会(当時の日本一決定戦)が開催され始め、大いに盛り上がっていました。

ホンダ社内の有志は1969年のモトクロス日本GP(国内レース=MFJGP)に「SL125」の4ストロークエンジンをチューニングして参戦。しかしこの頃、他メーカーは2ストロークエンジンのモトクロス専用車に進歩しており、4ストロークエンジンでは太刀打ちできない事を痛感します。
ホンダの2ストロークエンジンは創業初期の「カブ2F型」で一度終了しており、それ以降は全ての車種が4ストロークエンジンでラインナップしていました。2ストロークエンジンの開発はタブーとされており、水面下のプロジェクトとして、モトクロス専用車の開発がスタートします。
当時、モトクロスやオフロードライディングは世界的にも盛り上がりを見せ、アメリカのホンダ現地法人からも本格的なオフロード車の開発を求める声が上がっていました。
同時期に公道用市販オフロードモデルとして開発中の「SL250」は4ストロークエンジンでしたが、より高いオフロード走行性能を考慮し、提案された2ストロークエンジンがありました。それが「SL250」には採用されませんでしたが、「335」の開発記号でモトクロス専用エンジンとして先行研究に移行します。

1970年にはスズキが世界選手権モトクロス250ccクラスでタイトルを獲得しています。一方のホンダ開発陣は、2ストロークやモトクロスに不慣れでしたが、先行開発車「335B」を制作し、ホンダの名を伏せたまま1971年の全日本モトクロス選手権(観客数8万人)に出場します。
結果はリタイアでしたが、好スタートからトップを走行するシーンもありました。手応えを感じた研究所幹部は、2ストローク車の開発を本田宗一郎(当時社長)に直訴します。そこで「やるなら世界一の物を作れ」という言葉と共に、2ストローク車の開発が承諾されたと言われています。
いよいよ1972年から、ここに紹介する「RC335C」(ここから正式名称がRC250Mとなる)がホンダのロゴを付けて全日本選手権を走り出します。

当初はトラブル続きで性能も世界で活躍している他メーカーに比べると見劣りしましたが、その開発スピードは目覚ましく、同年6月の日本GP(MFJGP)で初優勝を果たします。
さらに同年9月には「RC335C(RC250M)」のテクノロジーを採用した市販モトクロッサー「エルシノアCR250M」が、翌1973年には市販オフロードモデル「エルシノアMT250」を発売。さらに125ccクラスにも同様に2ストロークモデルのラインナップを拡充していきました。
各メーカーのモトクロス専用車は毎年モデルチェンジを繰り返し、一気に高性能化していきます。ホンダの開発陣も負けじとファクトリーマシン「RC」と「CR」シリーズを進化させ、世界モトクロスGPやアメリカのAMAに参戦します。
本田宗一郎との約束から10年を待たずに、ホンダは1979年にモトクロスレースの頂点である世界選手権、モトクロスGPの500ccクラスでタイトルを獲得。2ストロークエンジンでも世界一になるという約束は果たされました。

ホンダコレクションホールに展示された綺麗な「RC335C」は、復元プロジェクトによって制作された1台です。2014年の全日本選手権関東大会では、1972年当時の優勝ライダーである吉村太一氏(あのRS TAICHIの創業者)のライディングにより、デモ走行が行なわれました。
■ホンダ「RC335C」(1972年型)主要諸元
エンジン種類:空冷2ストローク単気筒
総排気量:248cc
最高出力:30PS以上
【取材協力】
ホンダコレクションホール(栃木県/モビリティリゾートもてぎ内)