1600年10月21日(慶長5年9月15日)、徳川家康率いる東軍と、毛利輝元率いる西軍が、美濃国(岐阜県)関ケ原を舞台に行った合戦が「関ケ原の戦い」です。東西両軍の各陣地をスーパーカブで巡ったところ、「徳川四天王」の陣地は意外にも地味な印象です。その理由を後から知ることができました。

最前線で動き回った「徳川四天王」2人の武将

 NHK大河ドラマ『どうする家康』では、山田裕貴さんが本多忠勝を、板垣李光人さんが井伊直政を熱く演じています。「関ケ原古戦場」をスーパーカブで巡り、2人の陣跡を訪れることを楽しみにしていましたが、実際に現地へ足を運ぶと、西軍の武将たちの陣地と比べて、なんとなく地味な印象でした(失礼)。

民家の裏庭のような狭いスペースにある本多忠勝の陣跡。戦が始まる前から、そして最後まで寡兵で無尽に戦い動き回っていた忠勝にとっては、この地は重要ではなかったのだろう
民家の裏庭のような狭いスペースにある本多忠勝の陣跡。戦が始まる前から、そして最後まで寡兵で無尽に戦い動き回っていた忠勝にとっては、この地は重要ではなかったのだろう

 忠勝の陣跡は民家の裏庭のような場所に石碑があります。狭い道路で、バイクを少し離れたところに止めて、そっと足早に見ることしかできませんでした。解説板も設置された史跡なのですが、戦場らしさがまるで感じられません。

 後日調べてみると理由が分かりました。忠勝はわずか5百の兵力で開戦前にこの地に着陣したそうですが、家康の命により午前中から移動して、敵軍の監視を行なっていたのです。

 午後には宇喜多秀家(うきたひでいえ)を横から追撃し、石田三成勢とも戦闘。戦も佳境となる頃に西軍の島津義弘が中央突破してきたので、それを追撃。忠勝は愛馬を殺され、自らも落馬したそうです。しかしそこで終わりではなく、家臣の馬を借りて、最後まで抵抗する石田三成に向けて転進していったそうです。

 まさにドラマの人物像そのものの勇躍ぶり。1カ所にとどまっているような武将ではないのでした。「地味な陣」などと思ってしまった自分を恥じる活躍ぶりでした。

家康の「最後陣地」にほど近い場所、つまり最前線に布陣したのが「赤備え」で有名な井伊直政。“抜け駆け”の発砲により戦の火蓋が切られた。現在の「JR関ケ原駅」付近に整備されている
家康の「最後陣地」にほど近い場所、つまり最前線に布陣したのが「赤備え」で有名な井伊直政。“抜け駆け”の発砲により戦の火蓋が切られた。現在の「JR関ケ原駅」付近に整備されている

 一方、井伊直政も負けていません。東軍の中心的な人物として活躍しましたが、何と言っても「関ケ原の戦い」の先駆けが、「井伊の赤鬼」こと直政です。両軍が布陣した午前6時頃は霧に包まれていましたが、午前8時頃、霧が晴れてきたのと同時に、直政が鉄砲を放ったのです。

 本来ならば東軍先鋒の福島正則(ふくしままさのり)、もしくは西軍先鋒の宇喜多秀家が放ちそうなものですが、直政率いる「赤備え」の隊がいつの間にか最前線に位置していて、鉄砲を放ったのだとか。

直政の陣跡には「東首塚」があった。夥しい数の死者を弔うため、東西に首塚が造営された。敵味方の区別なく供養する風習は当時からあり、現代に至るまで丁重に行なわれているとのこと
直政の陣跡には「東首塚」があった。夥しい数の死者を弔うため、東西に首塚が造営された。敵味方の区別なく供養する風習は当時からあり、現代に至るまで丁重に行なわれているとのこと

 この“抜け駆け”の理由は諸説あります。井伊直政陣跡に設置された解説板によると、直政は家康の四男、松平忠吉(まつだいらただよし)を引き連れており、「初陣の忠吉に合戦を見聞させるため」と嘯き、発砲したとか。実際には「徳川家が先陣を切るべき」との判断だったのかもしれません。

「松平忠吉・井伊直政陣跡」に設置された解説板。各史跡に共通フォーマットの解説があり、実際に現地へ訪れるとより深くその歴史を知ることが出来る
「松平忠吉・井伊直政陣跡」に設置された解説板。各史跡に共通フォーマットの解説があり、実際に現地へ訪れるとより深くその歴史を知ることが出来る

 いずれにしても家康の四天王は、やはり戦で信じがたい活動、活躍、超人ぶりを見せていたのでした。血気盛んな山田裕貴さん、激しくも智将でもある板垣李光人さんの演技が思い起こされ、その姿を想像するのも楽しいものでした。