昨年10月、一昨年のクリスマスの日に自殺した電通の新人社員のニュースが世間をにぎわせました。まず、亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。
 
 今年7月、電通は「労働環境改革基本計画」(以下、同計画)を発表しました。また、9月22日、本件についての初公判が開かれ、電通の山本敏博社長は遺族に謝罪しました。

 電通の発表した同計画では、今年と来年においては特に、二度と労務問題を繰り返さないために法令遵守・コンプライアンスを徹底し、三六協定違反、ハラスメント、過重労働の3つのゼロを達成すると約束しています。

 その実現のためにさまざまな言葉が同計画には載っています。しかし、電通の元常務は「いずれも机上の空論であり仕事の中身を変えない限りは、現場は今まで通りの仕事の仕方を変えない」と厳しいコメントをしています。

 私は、年間1000人の働く人と面談をしている産業医として、同計画を興味深く読みました。率直な感想は、労働環境改善や過労死防止の観点からみると、非常に素晴らしい内容だと思います。しかし、やはりこれは実際に安全衛生管理の難しさ、メンタルヘルスや長時間労働者対応の難しさをさほど経験したことのない人たちが“机上”で作成したもので、実効性を伴わないものだと感じてしまいます。

●ゼロを目指す弊害

 その最たる理由は、「三六協定違反、ハラスメント、過重労働」の“3つのゼロ”を達成すると約束するとしている点です。

 私の約10年間の産業医としての経験上、この3点についてそもそも“ゼロ”を目指すことはいいことですが、現実的ではないと考えます。実際、仕事の現場にはいろいろなことが起こります。時に繁忙期が重なったり、突発的なことが生じたり、たとえ順調にプロジェクトが進行していても、そのピーク時には残業が発生する状況は多々あります。社員においては、このような多忙期を乗り越えることによって、結果や成果、実力や実績がつき、次のステージにつながる自信や評価が培われることもあります。

「上司に言われたから」「やらされているから」などを理由とする残業は、ストレスでしかないかもしれません。しかし、自らが自分の自由意志のもと選んだ残業は、自分の成長につながることは多々あります。

 ところが、会社が三六協定違反や過重労働ゼロを公言しすぎると、社員は残業したくても、それを上司(会社)になかなか言い出せなくなってしまうのです。その結果、繁忙期に自宅に仕事を持って帰ったり、19時に退社した後に近くのカフェや民間の会議室で業務を継続してしまいます。

 これが完全な自由意志の下の自発的な行為であればまだいいのですが、当然のように求められる行為との違いは紙一重です。自発的な行為で始まったものの、次第に既成事実化していき当然の行為になる例を私はたくさん見てきました。

 そもそも、メンタルヘルス不調になって判断力が低下してしまった人は、「仕事が終わらない自分が悪いから、社外で業務(実質の残業)をしてもこれは自分のせい」と考えがちなのです。

 ゼロを目指すよりも、残業が続いている時こそ心身の健康度をチェック可能な体制づくり、残業が続いた後の休暇取得の推進や義務化など、具体的対策を設け、社内で実施し社員間でその施行状況や経験を共有できるほうが、現実的であると思います。健康診断の受診率においてどの部署が何%の受診率と比べられるように、これに関しても、「どの部署が残業時間何時間ですが、その後の特別休暇取得率は何%です」といったような内容を毎月の衛生委員会で共有することは可能なはずです。

 また、同計画におけるハラスメントも“ゼロ”にする計画は、それ自体は素晴らしいと思います。しかし、これもやはり同様に、実効性を伴わない“机上の空論”に響いてしまうのは、私だけでないのではないでしょうか。

 残念なことですが、現実問題としてハラスメントはなかなかゼロにはなりません。理由は2つあります。

 1つめは、何をハラスメントとするかの定義が曖昧であるからです。その取り方は人それぞれ異なるのです。2つめは、ハラスメント加害者は結局、“ハラスメントするためにその理由を見つける”のであり、“理由があるからハラスメントをする”のではないからです。具体的には、たとえば、電話対応の仕方が悪いから上司に怒鳴られるのではなく、上司が自分の感情をどこかに爆発させたいから、その理由として電話対応の不手際を目をつけるのです。本来であれば、電話対応ができていない部下には、怒鳴るのではなく適切な指導がなされるべきなのです。

 そのようななかで、会社が熱心にゼロを公言すればするほど、ハラスメントを受けている社員は、「会社がハラスメントゼロを推進しているなか、この程度のハラスメントはクレームしてはいけないのではないか」と考えてしまいがちです。その結果、小さなハラスメントを加害者は自覚がなく継続し、被害者はストレスが積み重なり心身共につらくなっていくという悪循環となってしまいがちです。

●報告方法の徹底が必要

 私は、一昨年の電通自殺事件は、単なる長時間労働の問題ではないと考えています。ハラスメントを受けても誰にも相談できず、また周囲の人も気づかないか、気づいても“あの程度だから”と様子を見ていた結果も、悲劇につながったと推測します。残念ですが、会社はあまりそれから学んでいないなと感じざるを得ません。
 
 だとすれば、ハラスメント対策は、「何をしてはいけない」という一般的なハラスメント対策研修だけでは不十分です。実際に職場でハラスメント被害者になったときのサポート方法についての情報提供や、職場でハラスメントの現場をみたときの(匿名も可能な)報告方法の徹底が必要なのではないでしょうか。この際に、実際にハラスメントがなかったとしても、報告者が罰せられない、非を負わないという企業文化の徹底こそ、公言されるべきなのではないでしょうか。
 
 繰り返しますが、会社が「ゼロ(を目指すこと)」を公言すると、ゼロ以外が認められなくなります。結果、多くの人、立場の弱い人ほど手をあげられなくなります。最終的に、三六協定違反もハラスメントも過重労働も、隠れて継続される企業文化が形成されます。

 今回の電通の同計画は、いずれも実現できれば素晴らしい内容であることは確かです。違法残業が忖度される会社であったからこそ、社員たちが身分の危険を感じることなく、手をあげることのできる制度への着手が求められているのですが、同計画からはそれをあまり感じることはできませんでした。私も、元常務からは「机上の空論」、ご遺族からは「会社を信用できない」という言葉が出てきたことが無理もないと感じます。

 悲劇の事件よりすでに2年近くが経とうとしています。この間、会社に何か変化はあったのか、それともなかったのか、世間が知りたいのはそういうことではないでしょうか。電通は確かに実現すれば素晴らしい計画を公開しました。勇気のある行為だと思います。しかし、これはなんの法的拘束力もない、そして社内でのチェック機能しかない計画にすぎないのが残念でなりません。この計画も社会へ向けて発表して終わりになってしまわないかが懸念されます。

 もし会社がここに書いていることを本気で実現するつもりであれば、ぜひ四半期ごと、または半年ごとに実際の改善したデータも社内だけでなく社外へも開示してほしいものです。そして、日本の多くの会社のお手本、改革の参考事例となってほしいと思わずにはいられません。
(文=武神健之/医師、一般社団法人日本ストレスチェック協会代表理事)