作家の池澤夏樹さんが個人編集を務めた『日本文学全集』(全30巻、河出書房新社)が完結した。2007年からの『世界文学全集』全30巻に続く大事業。世界文学、日本文学の全集を個人で編んだ点が大きな特色だ。本が読まれない、全集なんてもってのほか、と言われる時代に、『日本文学全集』は累計52万部を達成し、出版界は驚いた。刊行を終えた池澤さんに振り返ってもらった。

「選者はぼく一人」必死で進めた

 こういう大きな仕事はうかつに始めてしまうもの。始めたら前に進むしかない。目の前の責務を必死でしていたら、気が付くと出口にいるんですよ。

 『世界文学全集』は、河出書房新社の編集者が僕が住んでいたフランスまで来て依頼されました。もう全集の時代ではないよ、と断った。ただ、選者はぼく一人というのが気になった。断ったのに、家へ戻ると何となくリストを考え始めているわけ。最終的には、東ヨーロッパやラテンアメリカが増え、女性作家が多くなり、移動が主題の作品が目立った。文学は世界の変化を書いてきたのです。

 2011年3月に『世界文学全集』の最終刊が出ました。その間、『日本文学全集』を出したい、その編者にもなってほしいと依頼されたのですが断っていた。海外文学は読んできたけれど、日本の古典や近代は僕にはできないと。完結した翌日に、東日本大震災が起きました。

 ギリシャや沖縄、フランスに拠点を置いていた僕は「帰りそびれた観光客」であり「勝手に特派員」と自称していた。しかし被災した東北に通うようになって、なんと災害の多い国土かと実感し、そこで暮らしてきた人々に、日本という国に気持ちが向いた。日本人とは何かを考えるようになった。

「民族学は文学のすぐ隣にある」

 古典は小説家や詩人に現代語訳をお願いしました。僕も何か訳せと編集者が言うので、『古事記』を選びました。(父の)福永武彦の訳を流用しようかと思ったけれど、何か違う。あの時代の人々は出会ったら、寝るか盗むか殺すか。展開が早い。スピード感が大切なのに福永訳はまどろっこしい。しょうがない、自分でやろう、と。さて、どういう文体にするか。用語の説明は脚注にする。神話・伝説、系図、歌謡というまったく違う三つの文体のモザイクを1年かけて訳しました。

 近現代文学は批評の姿勢が必要です。文学史は時代ごとに評価者を求めた。最初が紀貫之、次に藤原定家、近世で松尾芭蕉、そして近代の正岡子規。選ぶことはその時代の文学のあり方を示すことでした。僕は吉田健一、中村真一郎、丸谷才一などの文学観によった。

 川端康成や三島由紀夫の巻はない。彼らは短編の方がうまいから。三島は戯曲がいい。吉田健一、須賀敦子、石牟礼道子などにそれぞれ1巻をあてたのは僕のわがまま。また南方熊楠と柳田国男、折口信夫、宮本常一で1巻作った。民族学は文学のすぐ隣にあるから。

『日本文学全集』全30巻(河出書房新社)

男女格差が甚だしい国で「文学はフェア」

 いま日本文学とは何かを考えるなら、第一に恋愛中心。儒教の中国では考えられない。日本文学史は『古事記』の性愛場面から始まり、時代をへて、どんどん洗練されてきた。

 そして、『平家物語』のように、敗者に身を寄せてカタルシスへ導くのも特徴だと思う。同じ言葉、同じ文化同士だから、戦争になっても、殺し合いにどこかでストッパーがかかる。明治以降がらっと変わり、列強国並みに戦おうと虐殺をする。最後は特攻のように自分自身まで殺した。

 最後に、女性の活躍。平安時代までは、紫式部、清少納言ら文学者の多くが女性でした。世界史でも珍しい。それが終わると明治期の樋口一葉まで女性はいなくなる。この20年は女性作家の活躍がめざましい。ようやく平安時代に戻りました。男女格差の甚だしいこの国で、文学はフェアです。

 考えてみると、これほど長い文学史はほかに中国ぐらい。ギリシャやローマは一度なくなるし、サンスクリットは消えました。長い歴史のわりに言葉が変わっていない。中国語や他の外来語も取り込んでしまう。日本語の特異性にも気づきました。