だいぶ前にNHKオンデマンドで「ニッポン印象派『火まつり』」という番組を見た。日本の火祭りにまつわるものだ。そのなかでも特に印象に残ったのは、愛知県豊橋市で年に一度巡ってくる夏祭りに、男たちがめいめい打ち上げるための手筒花火を先人に倣いつくり、実際に打ち上げるまでの風習と文化を紹介するものだった。真剣な目つきで手筒花火をつくり、本番では広場に立ち、そして腰だめに構えた花火の筒を空に向ける。吹き出し始めた筒からは火の粉が勢いよく飛び出し始め、男たちはみなその火の粉の猛烈な熱さに耐え浴び続け、最後にどんと大きな音とともに花火が打ち上げられる。それまでの虚空に一気に花が咲くという格好だ。

 その祭りの伝統は、その地域では大人の男となっていくための通過儀礼のようにも見えた。大仕事を終えた男たちの誇らしげな表情がとても印象的だった。そしてもうひとつ強く印象に残っているのは、この番組の最後に花火の映像とともに画面に浮かび上がってきた詩だった。それは詩人・谷川俊太郎さんの「三つのイメージ」というものだった。

あなたに
燃えさかる火のイメージを贈る
火は太陽に生まれ
原始の暗闇を照らし
火は長い冬を暖め
祭の夏に燃え
火はあらゆる国々で城を焼き
聖者と泥棒を火あぶりにし
火は平和へのたいまつとなり
戦いへののろしとなり
火は罪をきよめ
罪そのものとなり
火は恐怖であり
希望であり
火は燃えさかり
火は輝く
―あなたに
そのような火のイメージを贈る(「谷川俊太郎 詩選集 3」、集英社文庫より)

詩の伝えもたらすイメージ

 それまでの花火の映像や男たちのひたむきな姿がとても美しく、すっかり番組に惹きつけられていたのだが、最後に出てきたこの詩がまた別の魅力を彩ったように感じた。この詩は火が本来もっている性質、隠れている本性も含めて暴いてくれた瞬間でもあった。

 花火は人間が火を加工し、コントロールしてつくりあげたものだが、火はいつもおとなしくしているわけでもなく、いつも美しいだけの存在ではない。いうなれば火は破壊する闇の力を持っているのだ。それまで年に一度の夏祭り、男たちの真剣な眼差し、そして打ち上げ花火という美しかったドラマが、この詩によってさらに別のドラマへと昇華したように感じた刹那だった。

 ちなみに、この「三つのイメージ」は火のあと、水、そして人間へとイメージが続いていくとても素敵な詩だ。僕はこの詩のもっている力と構図にハッとさせられて、谷川俊太郎さんの詩選集を買い求めた。今日でも僕の自宅の本棚にはこの詩選集が定位置に大切におさめられているのだ。

 詩が持っている力とはなんだろう。そんなことをふと思った。我々はありふれた日常をおくっている。ときに変化のない日常に飽きてしまうこともあるし、そう感じるときにそこにはドラマなどは感じられないだろう。ただ、詩はときにそんな日常の中に仄かにドラマの足音を運んでくるものなのかもしれない。確か何かのインタビュー記事で読んだのだと思う。これまた記憶が正確ではなく、谷川さんがおっしゃった表現や言葉そのものではないのだが、次のような趣旨のことを言われたのを覚えている。(間違っていたら僕の責任だ)

 「言語になる前の、言葉が生まれる前の何かをつかみたい。人間が言葉にしてしまう前のもの、こころにあるのか、どこにあるのか、ただそのリアリティに触れたいのだ。でもいつまでもそこに届かない不完全さばかりを思い知らされる・・・・・・」。谷川さんはこんなようなことを言われていたはずだ。僕はとてもなにか大切なことを言っていると感じたし、言わんとしていることに深く同意できる気もした。

 たとえば、いまこの瞬間に人に何かを語り掛ける直前、言語が頭に浮かんでくる前の感覚、それを実感できているなどとは言わないが、人類が言語を獲得する前の感覚がわずかながら我々には残っているのかもしれない。そして、言葉が定義した意味から溢れてしまうような、別の感覚の意味と出会いたいという、何とも矛盾した衝動が僕にもあるように思うのだ。作詞をするときなどはそうしたことを繰り返しつつ、どこかにあるはずの本質に少しでも迫りたいと作業をしているのかもしれない。そうかといって出来上がった作品はその片鱗すらみせないようなものになってしまうことが多いのも事実ではあるが・・・・・・。

 さて、話を戻したい。夏祭りと手筒花火。そこに関わる男たちとその情熱の数々は日常ではなく、年に一度の非日常の一コマであり、なにかしらのドラマが存在する。参加する当事者はもとより、視聴者も何かしらのカタチでこれを共有する。そして、このドラマは映像作品に作り上げられる過程で詩が加えられると、さらに別のドラマになることもわかった。

 このドラマの本質やポイントがうんぬんと論理的に詰めることもできないことはないだろうが、しかしこれらのドラマがドラマを生んで発展してゆく過程をあえてフィクションと呼ぶとするならば、僕はこのフィクションが持つ圧倒的な力、何かしらのイメージを伝播させる力、そしてそれが人の気持ちを動かしていく力に前向きな意味でショックを受けている。人々がただ素直に身を委ねたくなるそのフィクションの力に。

 ところで、僕自身が向き合っている音楽はどうなのだろう。そんな素朴な問いかけを続けつつ、大切なヒントをもらったつもりで曲をつくっている今日この頃だ。