あらすじ

高校卒業後、大阪から上京し劇団を旗揚げした永田(山﨑賢人)だが、公演は酷評の嵐で、ままならない日々を送っていた。そんなある日、自分と同じスニーカーを履いている沙希(松岡茉優)を見かけ、声をかける。お金のない永田が沙希の部屋に転がり込む形で2人の生活がスタート。沙希は永田の才能を信じて応援し、永田も自分を理解し支えてくれる沙希を大切に思いながら、理想と現実と間を埋めるかのように、ますます演劇にのめりこんでいく。

原作で描かれていることを「全部知っている」

――原作を読んだ感想はいかがでしたか?

 ここに描かれていることを全部知っている、と思いましたね。余すことなく全部わかるんです。僕が助監督ではなく、監督をできるようになってからも永田と同じような状況になったことがあるし、これは自分が経験してきたことで、その中の一つを又吉さんが取り上げて描いていて、ものすごくリアルに感じました。小説を読んで一番強く感じたのは、人を傷つけてきたことへの自戒でした。そのことを最初に感じたというのは、理想と現実の狭間でもがいていた経験のある者にとっては、胸に迫るものがありました。

©2020「劇場」製作委員会

――映画の冒頭で「いつまでもつだろうか」という永田のセリフがあります。原作では一文の中にさらりと書かれている言葉ですが、映画では何度か繰り返して印象づけていますよね。何か意図があったのでしょうか?

 それは本作で脚本を務めた蓬莱(竜太)が持ち込んできたんです。彼は劇作家で劇団も持っていて、鳴かず飛ばずの経験もあっただろうし、その言葉にシンパシーを感じるものがあったのでしょう。今作はモノローグを語るシーンが多いのですが、自分の心情を語っていて突然時間がポンと飛ぶとか、そこに印象を残すとか、そういう演劇的なモノローグのあり方を映画でやるのもありだよね、ということを僕と蓬莱で話していたんです。それで彼が一番引っかかっていたのが「いつまでもつのだろうか」という言葉だった。

 このセリフはどこか「可能性」というものを期待していますよね。芸術家やクリエイターが持っている「期待の裏側にある不安」みたいなものを明確にリフレインすることで、永田の心情を表すのにもいいなと思いました。

――本作は又吉さん初の恋愛小説です。行定監督は映画化にあたり「男女の恋愛におけるどうしようもなさを描きたかった」とのことですが「どうしようもなさ」とはどんなものでしょう?

 一番大切にしている人を傷つけちゃいけないし、一番大切にしなきゃいけないんだけど、その人を結果的に傷つけている、ということでしょうかね。結局傷つけているんだけど、それもエゴみたいなものがあるだろうし、そういう部分が「どうしようもなさ」なんじゃないかな。他者から見たら「許しちゃだめだよ」ということを許してしまう「甘さ」みたいな部分があって、もっと言うと、誰かがその人を攻撃し始めると、今度は否定した人間を攻撃するようになる。作中にも、永田に対して「沙希と別れてあげなよ」というセリフが出てきますけど、あれは耳の痛い話でね。

 結局、幸せの定義が何なのか分からないのが「どうしようもなさ」だと思います。幸せであるとはどういうことか、「何が幸せなのか」でしょう? 傍から見ると不幸だと思うことが、意外と当人は幸せだったりするんです。そこにも「どうしようもなさ」があるんだと思う。僕は永田と沙希、二人を決して肯定しようとは思わなかったんですよ。でも否定もできない。「俺たちは俺たちでいいだろう」みたいなことには絶対にならないし、二人が行った道が決して傷の舐めあいにならないから、この原作は素晴らしいなと思ったんです。

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山﨑賢人のキレイな顔を汚したいと思った

――主演を務めた山﨑賢人さんと松岡茉優さんについての印象を教えてください。

 プロデューサーから「永田役に山﨑賢人はどう?」と言われた時、僕は考えもしていなかったんです。でも、想像もつかない人の方がいいに決まっているし、このキレイな顔を汚したいと思いました。永田の風貌にあわせてひげを生やしてきた山﨑を見たら、色気があって匂い立つものがあった。彼の持っている「滞った何か」みたいなものが全部露呈されるような目をするし、芝居をする。永田という別人にしか思えなかったです。

 松岡は「自意識」というキーワードを基に、沙希の一つひとつを認めながら対峙していました。彼女は後半、しんどい芝居が多かったのですが、ファーストテイクより、5テイク目くらいの方がいい芝居をする「衝動的」な山﨑に対して、持久力を持って向き合っていました。物語が進むにつれ、二人がぶつかり合っていくんですが、音が聞こえるくらい芝居が共鳴していました。

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――ネタバレになるのであまり言えないのですが、ラストシーンの演出がとても印象的でした。小説を読んですぐに思いついたそうですね。

 このラストシーンに関しては、思った以上に自然な感じになったので言及する人は少ないんだけど、とにかく僕はこの映画であのラストがやりたかったんです。多分、又吉さんは6畳一間を自分一人のステージにして、この先、あるかどうかわからない不確かな未来を沙希に一生懸命訴えかけていたんだと思うんです。非常に文学的な終わり方ですよね。これはこの小説の力を感じられるもので、僕らが映画で描くときはそこに思いを馳せるんです。

 だけど、この作品を映画にしたときにその思いに打ち勝てるかなと思ったんです。原作をトレースしたような形にしたらしっとり終わることはできるけど、そんなに静かに終わっていいのだろうかと。永田はこれからも、認められないかもしれないけど演劇を続けていく。その思いはどんな思いなんだろうかと考えると、原作に描かれている永田と沙希をもっと違う形で、出来れば劇的な演出で昇華させて、後にこの二人が未来とどんな風に向き合っていくのかということが見せられないかと思い、パッと浮かんだのがこの演出法でした。

 たまに「映画独自のラストシーンを提示」みたいなのもあるけど、果たしてそれでいいのかと思うんです。僕が本作の最後にやったことは、映画独自ではなく、内容は一緒なんだけど、映画的でちょっと違う見せ方をしつつ、状況を変えることでこの二人をもっと感じられないかと考えたものです。それは又吉さんにも許可をもらって「あのラストシーンではこういうことがやりたいんだ」と伝えたら、又吉さんも「僕もそういうことを想像してラストシーンを描いていたのかもしれません」とおっしゃっていたので、やって良かったと思いました。

――舞台で使われるような演出の仕方を、映画で挑戦的に試みたということでしょうか。

 僕も今まで演劇を何作かやらせてもらった中で「演劇とは何か」「映画と演劇って何が違うんだろう」と考えてみたら、演劇の方が自由で、映画の方が窮屈だと思ったんです。以前、そのことについて蜷川幸雄さんと対談したとき「映画はいいよな、カメラ一つ持って行けば、渋谷の雑踏とかニューヨーク、どこだって行けるんだろう」とおっしゃったんですが、僕が「いやいや。舞台の方がどこにも動かなくて、どんどん場所を変えられるじゃないですか」と返すと「馬鹿野郎」って言われたことがありました(笑)。

 演劇って、何かの状態が崩れ去ると違うものに思えてくるというか、現実を見せることが出来るんです。その現実の良さってあるじゃないですか。例えば、舞台のセットがバーンと崩れた時、外には渋谷の街があって、登場人物たちがステージからワーっと街に逃げていくと、本当に現実としての渋谷のどこかに消えて行ったんじゃないかと思わせられる。そういう自由な表現が舞台では出来たりするんです。

 映画でそれをやろうと思っても中々難しいんだけど、今回は永田と沙希がいつの間にか違う次元にいるっていうことが、この演出をやることで一瞬にしてできるなと思ったんです。僕の知るところでは、クライマックスにこういうことをしている映画はあまりないですね。普通、映画ではしないことなので、ルール違反なんですよ。そこをいかに心情と共に自然にできないかという可能性にかけてみました。

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僕は原作原理主義

――行定監督はこれまでに「GO」や「世界の中心で、愛をさけぶ」など、文芸の実写化を手掛けていらっしゃいますが、原作物を撮る時に心掛けていることはありますか?

 僕は原作原理主義で、基本的には変えたくないと思っています。物語の0から1を作っていくのが原作者だと思っていて、それが一番大変ですよね。そこから先を、僕らが映画の特性や映画的な何かに乗っかって、映像の形にしていけたらいいなと思っているんです。

 多分、優れた小説ってテーマ主義ではないと思うんですよ。物語を端から書いていって、こういう物語ができた。純文学は特にそうだと思っていて、僕が純文学を好きなのはそこなんですよ。読んだ読者である僕が、何かその作品のテーマを見つけるんです。例えば、すごく愛し合っているように書かれている恋愛ものでも「きっとこれは愛憎だ」と自分が感じて、その作品を映画化したいと思ったら愛憎の映画になるだろうし。今作で言うと、恋愛小説とは言っているけど、この二人の愛が色々な形として描かれていると思う。映画にしたときにテーマっていうものが確立されるんだけど、それを決めるのが自分たちの仕事だと思うから、原作者にも良い意味で認めてもらうのが重要なのかなと思います。

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――そういう風に原作を読み込まれていらっしゃるんですね。元々読書はお好きなのですか?

 かなり好きです。僕は基本的に純文学が好きなのですが、海外の気に入った作家に出会うとその人の作品も読みます。例えばレイモンド・カーヴァーとか。あとは南米文学も読みますね。どれも共通しているのは、物語がさほど重要ではないということです。日常の積み重ねがすごく好きで、日常の中に潜んでいる、ちょっとした目に留まる瞬間や、感じているものが自分と一緒だとか、そういう作品を読むとすごくヒントになります。風景描写みたいなものも好きで、特に川端康成の風景描写は見事です。

――今まで読んできた中で、特に印象に残っている作品はありますか?

 フリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』という長編小説は、作家が指示した順番で沿っていく読み方と、章の順番を入れ替えて読ませ、3分の1は捨て去ってもいいという読み方、2通りあるユニークな小説で驚愕しました。そんな物語を逸脱していくような散文みたいなのが好きです。ただ無駄なわけではなく、その文脈の中に日常とか色々な「何か」はあるんですよ。だけど、それらは最後に描きたかったことへの伏線でもなんでもなくて。僕ね、それが憧れでいつかそういう映画を撮りたい。10時間くらいあるんだけど「最後の3分以外は忘れていいんですよ」っていう。

――3分でいいんですか(笑)?

 それまでの内容は観たらすぐ忘れていいんです。一生懸命ストーリーを覚えて「こいつが犯人なのか?」とか「きっとこの関係が後になってこじれるんだな」とか、人間って色々勘ぐるでしょう。でもそんな風に勘ぐるような人生って、実際あんまりないんだよね。たまに変な場面があったりするんだけど、それが人生と全く結びついていない。「そういうのって、つまらないんじゃないの?」と聞かれたら、つまらなくはないんですよ。映画って、それでいいんじゃないかと思うんです。

――今のお話を聞いて『石蹴り遊び』を読んでみたくなりました。

 気になったでしょう? ぜひ読んでみてください。絶対途中で挫折しますよ(笑)。正確な彼のメッセージは分からないけど「作品の3分の1は何の未練もなく放り出してもかまわない」って言われると、人生って重要なものばかりじゃないなって僕は気づいたんです。そこが面白いと思います。

お話を聞いた⼈行定勲(ゆきさだ・いさお)映画監督、演出家

1968年生まれ。熊本県出身。2000年公開の「ひまわり」が初の劇場公開作となり、同作は釜山国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞。その後の監督作に、映画「GO」「世界の中心で、愛をさけぶ」「パレード」「ピンクとグレー」などがあるほか、待機作に「窮鼠はチーズの夢を見る」(9月11日公開予定)がある。

インフォメーション劇場

又吉直樹原作、行定勲監督、蓬莱竜太脚本。山﨑賢人、松岡茉優、寛 一 郎、伊藤沙莉、三浦誠己、浅香航大ら出演。136分。2020年7月17日より全国の劇場で公開、同日よりAmazon Prime Videoにて全世界独占配信。
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