桜庭一樹が読む

 「豚殺せ。喉(のど)を切れ。ぶちのめせ」

 暴力的で短絡的な事件の報道を読むたび、わたしは「一体なぜ!」と驚く。この世には、自分たちとは全く違う、残酷な人間がいるのか、と。でも……?

 さてこの作品は、無人島に取り残されたイギリス人の少年たちが、秩序を作らんとし、失敗し、やがて混沌(こんとん)と暴力の世界に堕(お)ちるという、“ディストピア小説”の金字塔だ。ホラーの帝王スティーヴン・キングの愛読書としても広く知られている。

 作者は一九一一年、イギリス生まれ。第二次世界大戦に従軍し、ノルマンディー上陸作戦に参加。十年後の一九五四年、初の長編たる本書を刊行。のちノーベル文学賞を受賞した。

 物語は、沖合の船に助けを求めるため、焚(た)き火を燃やし続けようとする理性的な少年ラルフと、狩りにこだわり、野生に戻ろうとする少年ジャックの対立を描いている。ラルフが幼い子供たちも守り、公共の利益を追求する一方、ジャックは、強いヤツにこそ生き残る権利があると考える。少年たちの世界に分断が生まれ、やがて、血に飢えた暴力の輪が広がっていく。ラルフは友を殺され、手下に裏切られ、独りぼっちで狩られ……島には“蠅の王(ベルゼブル)(新約聖書の悪霊)”が現れて……!

 作者はホロコースト、原爆などに衝撃を受け、当初は“東西冷戦下で第三次世界大戦が起き、少年たちが疎開し、無人島に不時着した”設定で本書を書いた。無人島を舞台にした先行作品『十五少年漂流記』『ロビンソン・クルーソー』には人間賛歌が溢(あふ)れていたが、今作に流れるのは、この時代を生きた作者による、全く異なる実感だ。オックスフォード大で科学を学んだ作者ならではの、数式の如(ごと)き機能的なプロットにより、“我々人間には暴力性と自分本位さという原罪がある”というテーマが叩(たた)きつけられている。

 世界が混沌とする今、改めて読むと、自分や、周囲の人間の内面への疑念も浮かぶ……。ひどく悩ましい一冊だ。=朝日新聞2020年12月19日掲載