「法哲学者H.L.A.ハートの生涯(上・下)」 [著]ニコラ・レイシー

 スキャンダラスな伝記だ。主人公は、20世紀を代表する法哲学者ハート。現代の法実証主義の原型を築いた巨人だ。世代や影響力は、映画界では黒澤明のような存在と言えようか。
 ハートは厳密性や明晰(めいせき)性を重視した。ところが「頭の中が整理されているならば、机を整理する必要はない」とオフィスは乱雑。心ここにあらずでネクタイを忘れたり、二本締めたり。不安やパニック感情は彼に終生つきまとった。
 「慎み深くあるには人生は短すぎる」。そんな奔放な妻は、夫の親友である哲学者バーリンらと関係をもつが、ハートは知らぬふりで自分の感情を抑圧する。自らの同性愛感情にも悩んだ。性的指向ばかりか、ユダヤ人として生まれたアイデンティティーの揺らぎも不安の根底にあった。
 このように本書は、内面世界に迫りながらハートの人生と仕事を立体的に描きだす。日記や手紙などの未公刊史料を活用した成果だが、原著公刊時にはこの手法は賛否を呼んだ。
 法哲学の授業でよく紹介される学説や論争も、生き生きと描き直される。同性愛を非難するデヴリンとの論争。個人の自由の擁護は、自身のアイデンティティーと無関係でなかった。悪法は法かをめぐるフラーとの論争は、むしろ2人の信頼関係を育んだ。一方で講座後継者ドゥオーキンとの不幸な亀裂や論争は、さらなる不安の原因となる。
 心理分析と並んで叙述を支えるのは、エリート社会をめぐる知識社会学的な説明だ。オックスフォード大学や哲学者コミュニティーは、自分の学問分野を支配したいとの欲望が渦巻く男社会だった。ハートはこの社会のインサイダーとなるが、最後までアウトサイダー意識が消えなかった。自分は「完全には男性的ではない」。「女性的側面」の抑圧こそが自らのパニックの一因だろう。ジェンダー法学者でもある著者レイシーは、ハートのこうした自己分析を見逃さなかった。
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Nicola Lacey 英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授(刑法・法理論・ジェンダー法学)。