お話を聞いた⼈荒井裕樹(あらい・ゆうき)

1980年東京都生まれ。二松學舍大学文学部准教授。専門は障害者文化論、日本近現代文学。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。著書に『隔離の文学――ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学――「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)、『生きていく絵――アートが人を〈癒す〉とき』(亜紀書房)、『障害者差別を問いなおす』(筑摩書房)、『車椅子の横に立つ人――障害から見つめる「生きにくさ」』(青土社)など。

世の中の「言葉が壊れている」

――荒井さんは障害者運動家などの被抑圧者の表現を研究しています。今作のまえがきは「『言葉が壊れてきた』と思う」という一文から始まりますが、最近そのように感じることは多いでしょうか?

 ここ何年もしんどい言葉が増えてきたなと思っていました。生活保護バッシング、障害者バッシング、ヘイトスピーチなどの憎悪表現があふれています。政治家など社会を牽引する人の言葉も、心に響くことが記憶をさかのぼってみても全然ないんですよね。

 しんどくてネガティブな言葉が増えてしまうと、ある程度感受性のスイッチを切らないとやっていけません。いちいち全力で反応していたら体がもたない。でもそれは、考えるのを止めることなんですよね。僕たちは言葉を巡ってものすごくしんどい時間を生きているんじゃないかと思います。

 一方、僕がお世話になった人や影響を受けた本の中の言葉は、もっとポジティブな力を持っていたぞと思ったんです。言葉に励まされたり、心を動かされたことがありました。言葉の力を諦めたくないと思って、なんとか模索していこうと手探りで書いてきました。

――「わかりやすさ」ばかりに重点が置かれる風潮にも警鐘を鳴らしています。

 書く仕事をしていると「わかりやすくまとめてください」という注文が最近やたらと多いんですよね。コンセプトやターゲットをはっきりさせて、文章は簡潔にわかりやすく書いてほしいと。すごくもやもやしていました。世界は複雑な現実にあふれていて、その複雑さを伝えようとしているのに。それをわかりやすくとは、読者を信用せずにバカにしているような感じがします。

――皆がSNSを使うようになったことも関係していますか?

 たとえばツイッターは140字に収めないといけません。ものすごい要約力が必要ですよね。でも、要約という作業で削ぎ落とされているものが、非常にたくさんあるはずです。ぎゅっとまとめられたものだけが、目に見える形でメディアを飛び交っている。これは怖いことだと思います。

 僕はある問題について伝えようとすると、単行本を1冊書いても削ぎ落とすものがいっぱいあるわけです。これまでは取材させていただく人と長期にお付き合いすることが多くて、例えば(障害者運動家で俳人の)花田春兆さんの付き人みたいなことを4、5年ほどやったこともありました。でも知れば知るほど、わからないことが増えてくる。何を書いても、すべてじゃなくなる。まとまらなくなって、答えが見つからない。でも僕はそういうものこそ、言葉にしたいと思います。

 僕はひとりの人間として「なんで今まである程度それなりに生きてこられたんだろう」と考えたときに、決して要約できないいろいろな言葉にお世話になってきたという感覚が強かった。その感覚を書いてみたかったんです。

障害者差別と闘った運動家たち

青い芝の会神奈川県連合会の会長を務めた横田弘さん。2006年8月3日撮影。(C)朝日新聞社

――本書では花田さんや横田弘さんなどの障害者運動家の言葉を紹介しながら、差別や人権の問題について書いていました。

 障害者運動に関わった人たちは、差別や人権について突き詰めて考えていました。一般に障害者差別の問題は、どこか遠くで起きていることと思われがちです。でも差別や人権の問題は、私たちが生きることそのものに関わるので、もっと自らの暮らしに引き寄せて考えないといけないんです。

 これまで障害者の運動や差別について本を書いてきましたが、ずっとテーマにしてきたのは「隣町の人に読んでもらうこと」でした。社会福祉に関わる人や社会問題に関心のある人は、頼まなくても読んでくれるんですね。でも関心が別にある人や身近に障害者がいない人は、そういう本棚の前に行かないと思います。

 だから隣町の人、たとえば障害者運動についてはあまり知らないけれど、人間とは何かを問う文学や芸術には興味がある人、社会問題には関心がある人に読んでもらいたいと思うんです。そのためにはどんな言葉遣いがいいだろうと考えながら書いてきました。学術的な言葉遣いではなく、私たちの暮らしの中の言葉で語りたいと思いました。

――本書では「青い芝の会」(脳性マヒの当事者団体)の運動が紹介されていました。改めて、どんな点が画期的だったのでしょう?

1968年8月7日朝、富士山に登る「青い芝の会」メンバーら。賛助会員の全日空や日本航空の社員らが介助し、参加者のうち十数人が8合目付近まで登ったという。60年代頃の同会は穏健な親睦団体で、活動内容も互助、レクリエーション、チャリティーなどが主だった。(C)朝日新聞社

 「青い芝の会」といっても、一言で括れない多様さがあります。日本各地にたくさん支部があって、それぞれが個性的な運動をしていました。

 でも、根っこにあるイズムみたいのものは同じだと思います。障害者は「かわいそうだ」「不幸だ」といった、世の中の価値観と闘ったということです。それまでは障害者への「優しさ」や「思いやり」が足りないことが差別だと考えられてきましたが、そういった感情自体が差別なのだと指摘しました。

 「青い芝の会」の主張は、ものすごく画期的だった。画期的すぎて、多くの人から「過激な人たち」と受け止められた。
 例えば、「障害者は親元で暮らすか、専門家がいる施設に入るのが幸せだ」という意見に対しては「街中で普通に生きさせろ!」と反対したし、「少しでも障害を軽くした方が良い」という価値観に対しては「『できないまま』じゃいけないのか!」と反論した。
 そんな彼らの主張には、それまでの「障害者イメージ」を根っこからひっくり返してしまうパワーがあったし、主張を受け止める人の頭が真っ白になるようなパンチ力があった。

 世の中の価値観と闘うのはものすごく大変なことです。家族やクラスの雰囲気を変えるだけでも、大変なエネルギーが必要ですから。しかし「青い芝の会」はそこに挑んだ。だから惹かれるものがあります。

――主張をまとめた行動綱領には「愛と正義」を否定するなど、一見過激に思える内容もあり、賛否もあったそうですね。

 僕が最初に「青い芝の会」について勉強しはじめたときは、「この人たちはいったい何を言ってるんだろう」と戸惑いました。でも横田さんや花田さんなど「青い芝の会」に縁のある人に話を聞きに行って、時間をかけて話をしていると、「ああ、こういう主張もあるのか」となんとなくわかっていったんです。

 大事なのは、その人たちの主張が受け入れがたい自分って何なんだろう? ということです。もう一回、問いを返せるかどうかです。なんで自分はあんなに必死になって闘っている人たちのことがわからないんだろう。そう問いかえすことの大事さは、当事者の方たちと付き合う中で教えてもらいました。

1977年4月12日、国鉄川崎駅前で、「青い芝の会」の会員をバスに乗せようとする介助者と、そこに居合わせた乗客たち。当時は障害者が外出することすら社会の目が冷たく、公共交通機関の乗車拒否も頻発していた。神奈川県の「青い芝の会」メンバーらは、車椅子の乗車拒否を続けるバス会社や一般社会に抗議する「川崎バス闘争」を繰り広げ、注目を集めた。(C)朝日新聞社

――横田さんとお会いすると、ハッとするようなことも多かったのでしょうか?

 横田さんにはよく怒られましたね。でも「わかってねえなあ、荒井くん、あのねえ……」と諭すような感じですよね。孫とおじいちゃんくらい歳が離れているから、優しくしてくださったのかもしれません。

 独特の存在感があってものすごい迫力の方でした。横田さんを前にすると、自分の言葉が試されているように感じるんです。私とは全然違う人生を生きてこられた。身につけている常識や価値観が全然違う。だから、真剣にお話をうかがおうとすると、それなりにしんどいです。けれどもやっぱり楽しいところもある。障害者運動家の介助者をしている知人から「たのしんどい」という言葉を教えてもらいましたが、大学院生の頃はその感覚を随分鍛えられたように思います。

――本書では「青い芝の会」などの障害者運動の中に女性差別があったことを指摘しています。

 障害者運動において女性差別は根強くありました。運動の中心が男性達で、女性達はそれを支えることを強いられる構図がありました。

 僕も「男の夢とロマン史観」のようなもので、障害者運動の歴史を追いかけていたことに気づきました。これまで話を聞いてきた方は、大体が男性運動家でした。長くお付き合いをしてきて、武勇伝のような話を聞いていました。

――それに気づいたきっかけは何ですか?

 すごくお世話になった障害者運動家の方がお亡くなりになって、しばらくしてから地域のお祭りで、奥さまを見かけたんです。ご挨拶をしようと思ったら、くるっと踵を返されたことがありました。

 運動家の妻として、大変ご苦労されていることが全然見えていなかったと思いました。当時、僕は20代前半で、まだまだ世間のこともわかっていなかった。アポなしで遊びに行っても、いつもお茶を出してくださいました。その運動家の方は体が弱かったので、奥さまは運動をすることに対して複雑な思いを抱えていたのかもしれません。僕は「夫を焚きつけたひとり」と見られていたかもしれません。

 もちろん、女性の立場から問題提起をした障害者運動家はたくさんいました。僕が話を聞きに行ける範囲内にもいたのに、ちゃんと話を聞いてこなかった。それにあるとき気がついて、愕然としました。僕も障害者運動を男性の歴史観でとらえてきたんだなと。

相模原事件は「遠くで起きたこと」ではない

2020年7月26日、入所者ら26人が殺傷された事件から4年が経った「津久井やまゆり園」で、献花台に花を手向け、目頭を押さえる女性。園は建て替え工事が進んでいる(後方左)=長島一浩撮影 (C)朝日新聞社

――2016年に神奈川・相模原で起こった障害者施設での殺傷事件についての文章がありました。このような凄惨な事件について、どのように受け止め、言葉を発していくべきでしょうか?

 異常な人間が起こした例外的な事件、ではないですよね。実行犯の人間だけを排除すれば片が付くような問題ではありません。障害者と不幸な出会いしかできないような社会の仕組みになっていると、また繰り返される可能性があります。

 社会の中でたくさんの方が殺された。それに無関心でいられてしまう社会は、非常に怖いと思います。しかし、相模原事件をしっかり社会で受け止め、人間の尊厳や命の重さを考えようという、ある種の想像力がものすごく劣化しています。事件の起きた障害者施設を、東京パラリンピックの聖火の採火場所にしようとしたわけです。お祭りのようなイベントをしようとしていた。ものすごく危機感を覚えました。

 どこか直接自分と関わりがない遠いところで起きた事件だと考えられている節があります。本当にそれでいいのでしょうか? あの事件についてどのように考えるかが、これからの社会のあり方を決めていくと思います。決して大袈裟ではなく、本気でそう思っています。

私は、来年も、再来年も、その先も、七月が来るたびに相模原事件のことを書こうと思います。共にこの問題を考え、この問題に囚われてくれる人たちと共に、悩み、苦しみ続けようと思います。

――コロナ以後の最近の言葉のあり方についてはどうお考えですか?

 今、皆が生活や健康が直接脅かされるような怖い思いをしています。でも社会の方針を決めていく人たちの言葉が、びっくりするくらい響かないんですよね。この漠然とした、でもずっしりとした「見放され感」は何なんでしょう。具体的には、アベノマスク、特別定額給付金が1回しか給付されないこと、突き進む東京五輪などいろいろありますが。

 障害者運動を勉強してきた人間の立場として言わせてもらうと、障害のある人たちの中には、この「見放され感」を平時から突きつけられている、と感じる人が少なくないと思います。医療にかかれないかもしれない。助けてもらえないかもしれない。そんな恐怖を抱えながら、自分の尊厳や存在感を軽んじられることの苛立たしさ、悲しさ、辛さを感じてこられたと思います。

 もちろん障害がある人たちと、そんなに簡単に「同じ目線」にはなれません。人はそれぞれ立場が違うし、生きてきた積み重ねが違う。でも、障害者運動をしてきた人たちの言葉について考えることで、「同じ方向」は向けるだろうと思うんですね。