別れ際、親しい相手と「楽しかった。またね」と言って、軽くハグし合うことがよくあった。長々と握手をして別れを惜しむ、ということも日常茶飯だった。

 生きているものの厚み、生命のぬくもりに直接触れることが叶わなくなって久しい。当たり前のように人の肌に触れることができた日々が、百年も千年も昔のことだったように感じる。

 『I Want To Hold Your Hand』は、ビートルズの初期の代表曲の一つである。直訳すれば「あなたの手を握りたい」。

 だが、歌詞の中に、身体を抱きしめたい、という表現は一切ない。あくまでも手を握りたい、とするにとどまっているのだが、邦題は『抱きしめたい』である。確かに「手を握りたい」よりも、「抱きしめたい」のほうが強烈な印象を残す。

 私も今、強烈に誰かを抱きしめたい。誰かに抱きしめられたい。

 病み衰えた夫の、枯れ木のようになった肩を抱き、骨ばった手を握り、恐ろしくむくんでしまった足首や痛みの出る背中をさすり続けたひとときを、叶うならば今再び手に入れたいとさえ思う。

 死に向かう彼は見ているだけでも辛かったというのに、何を今さら、と自分でも呆れる。だが、誰であろうが触れることのできなくなった時代を生きながら、私には死に瀕した者の肌ですら、懐かしい。

 不安や恐怖にかられた時、心細い時、哀しみに打ちひしがれている時、誰かにそっと抱きしめられたり、手を握ってもらったりするだけで、いっとき、苦痛から逃れることができる。冷たく凍えた気持ち、寂寞(じゃくまく)とした想いの中に、ひとすじの温かな光が射しこまれるのである。

 いつの世でも、どんな時でも、人々はそうやって生きてきた。簡単なことだった。抱きしめる。抱きしめられる。手を握る。握り返す。たったそれだけのことが、手に負えない魔物から相手を守り、自分もまた守られることを私たちは知っていた。

 介護施設に暮らす高齢女性を、これ以上できないほど、全身をものものしい防護服に包んだ娘が訪ねていく様子が、テレビの報道番組に映し出されていた。母娘は、一年間、会えないままでいたという。

 ゴム手袋に包まれた娘の手が、母親の肩をもみ、手を握り続ける。娘の頭部は、球体の透明なプラスチックで覆われている。二十分という短い時間制限の中、老いた母親はただ、目に涙を浮かべるばかりだった。

 昨日と一昨日、森にも春一番が吹き荒れた。ここのところ、毎晩、美しい尾をもつ、元気いっぱいのキツネの番(つが)いが現れて、私が与えるクルミを食べていく。空には煌々と半月がのぼる。

 変わらずに季節は流れる。新しい生命が生まれ続ける。寂寥だけが消えずに残されて、私は今日も、猫の柔らかな身体に鼻を埋める。(作家)=朝日新聞土曜別刷り「be」2021年3月6日掲載

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〈読者のみなさんから〉

 死んでいるわけではない、でも生きている感覚がない、寂しいとか悲しいとかではなく、とても怖かった。どこまでも足がつかない真冬の海に沈んでいく。あるいは、無限の宇宙にたった一人放り出され、漆黒の闇の世界を彷徨っている感覚。

 21年前、夫と死別した当時の私です。

 小池真理子さんの「月夜の森の梟」を読み、毎回、自分の体験と重ねていました。

 死別直後、私の世界から一瞬で色がなくなったこと、周りからの語りかけが遠くに聞こえ、独りぼっちでカプセルの中にいる感覚。その場しのぎで綴られる、悪気はないが、心も無い慰めの言葉の数々、幸せな社会から疎外され、自分の居場所がなくなる感覚。死別直後、涙で曇った車窓からみた大きな虹に、虹と夫が重なり「がんばれ!」と私を励ましてくれた実感……。

 最愛の夫と死別した私は、共有体験を持つ小池さんの文章の中に、自分の居場所を確認することができました。遺族の悲嘆は、個別のものであり、共有体験の中に身を置いたからと言って、その悲しみが消えるものではありませんが、自分の思いを認めてもらえ、落ち着ける居場所を見つけることができます。愛する人との死別の悲しみは、その時点で完結するものではなく、そこから始まります。残されたものは何年経過しても悲しみと共に生きることになります。

 悲しみの形は変容し、少し遠くなってしまった私の死別体験ですが、小池真理子さんの文章に癒され、その中に、あらためて私の居場所を見つけました、悲しいけれど、優しく温かい文章をありがとうございました。(大阪府、魚住敦子)

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  小池真理子さんのエッセー「月夜の森の梟」は2020年6月から翌年6月末まで、朝日新聞土曜別刷り「be」に掲載された。2020年1月に死去した夫であり、作家の藤田宜永さんをしのぶとともに、哀しみを通して人間存在の本質を問う内容には大きな反響があった。便箋10枚、20枚といった手紙が届き、メールを含めれば千通近いメッセージが寄せられていた。11月に連載をまとめた単行本『月夜の森の梟』(朝日新聞出版)が刊行されるのを前に、追悼を文学に高めたと評されたエッセーの一部を紹介するとともに、その魅力を探っていく。
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