いまなら、称賛をこめて「わきまえない女」と呼ばれるかもしれない。日本で初めて、ロシア正教のイコン(聖像画)を描く画家となった山下りん(1857〜1939)。時代の制約のなか、周囲とのあつれきも恐れず画業に身を捧げた生涯を、作家の朝井まかてさんが歴史小説『白光(びゃっこう)』(文芸春秋)に描き出した。

 りんは幕末、笠間藩(現在の茨城県中部)の藩士の娘に生まれた。〈絵さえ描ければ〉という少女は、筆を執ることが許されなくなるであろう縁談を拒むように、家を飛び出す。

 「故郷も女性一般の幸せも、絵を描くこと以外はすべてを捨てられた人」。取材で読み込んだ資料からは、りんのそんな姿が浮かび上がってきたという。

 江戸の面影を残す東京で浮世絵などを学ぶ模索の日々を経て、当時の最先端、西洋画を自分の歩む道と見定める。神田駿河台のロシア正教会で洗礼を受け、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに留学する幸運をつかむ。

 だが、それは画家としての本当の苦悩と葛藤のはじまりだった。渡航したりんが案内されたのは美術学校ではなく、女子修道院にあるイコンの工房。イコンはキリストやマリア、聖書の物語などを描き、教会の壁に掲げられるなどして、信徒らの信仰のよりどころとなるものだ。

 工房での修業として、伝統的で素朴なギリシャ様式のイコンの模写を命じられ、憤慨する。本当に学びたかった近代西洋画の優美な描線とはかけ離れた〈黒く汚い絵〉と見えたからだ。

 「当時の日記には『心悪シ』とだけ書いてあることも。絵がうまくなりたい一心だった彼女が、芸術と信仰の間で苦しんだ様子が伝わってきます」

 ストーリーは事前に決めずに書き始めるという朝井さん。「書くことは、登場人物と一緒に生きること。見たことのない景色を見たくて書き進めるのですが、りんの場合は、さすがにどうなるのだろう?と」

 作中に、りんが真の信仰に目覚めるような劇的な出来事は描かなかった。日本にロシア正教を伝えた大主教ニコライの存在に導かれ、人びとの〈信仰の窓〉としてのイコンを描く日々を一日一日と重ねていく。「苦しみながら描き続けるうちに、(自己の存在が)透明になっていった人だと思います」

 老境を迎えたりんは、かつての自分のように芸術と信仰の間で葛藤する若い弟子を見守りながら、独白する。

 〈師が千言を費やそうと、己の道は己の足でしか歩けない〉

 その言葉に万感がこもる。(上原佳久)=朝日新聞2021年10月13日掲載