「深海学」 [著]ヘレン・スケールズ

 一平方センチ当たりに数百キロの重さに相当する圧力、太陽光も届かず、エサも極端に少ない深海。そこには私たちの想像を超え二万種以上の多様な生物が生息している。その中でも鉱物の溶けた熱い水が湧き出す噴出孔の周りだけで七百種以上の生物が観測されているという。この暗闇の中の生態系は光合成の代わりに化学合成によってエネルギーを得る微生物をその食物連鎖の土台とする。海洋生物学者である著者の描く深海の世界は陸上での常識が通じない暗闇の豊かな自然だ。
 深海は水深二百メートルから始まる。太陽光が一切届かなくなり、水温が四度程度で一定となるのは千メートルよりも深い海だ。海の平均深さは三千メートルを超える。深海は広い。そして、行きにくさを距離感の指標とすれば、とても遠い。とはいえ、実際の距離で言えば深海は私たちの隣の庭といっていい。
 隣の庭といえども見たこともなく今後行くこともないだろう場所の未来を自分事として想像するのは難しい。しかし、近年問題となっているマイクロプラスチックの多くは海の表層より深海に堆積(たいせき)され、深海のロマンチックな風景として思い浮かべるマリンスノーもプラスチックに汚染されていると聞けば衝撃を受ける。
 地球温暖化の影響が身近になりつつある今日、以前より環境保護の重要性は認識されている。特に海が吸収する熱や海水の循環が地球の温度調整に重要であることはよく知られており、そのバランスが一度崩れたら元に戻すことは困難だ。一方、温暖化対策であるはずの再生可能エネルギーの安定供給を旗印に、深海底での鉱物の採掘に対する関心も国際的に高まっているのだという。
 著者の危惧は、利益を求める業界側から、学術界も納得するような環境保護に配慮した深海底採掘案が示されることはないだろうという点だ。本書は、すぐ隣にある深海に対し、自分が如何に無関心でいたのかに気づかせてくれる良書だ。
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Helen Scales 英国生まれの海洋生物学者。各紙誌に寄稿、ラジオにも定期的に出演。著書に『貝と文明』など。