お話を聞いた⼈原田ひ香(はらだ・ひか)

1970年、神奈川県生まれ。2005年「リトルプリンセス2号」で第34回NHK創作ラジオドラマ大賞受賞。07年『はじまらないティータイム』で第31回すばる文学賞受賞。『三千円の使いかた』『そのマンション、終の住処でいいですか?』『古本食堂』など著書多数。今秋、『一橋桐子(76)の犯罪日記』がドラマ化(2022年10月放送開始予定、NHK総合)。(撮影:新潮社)

まじめな人々が陥る貧困

――物語は、主婦・葉月みづほが節約に節約を重ね、ルイ・ヴィトンの長財布を手に入れるところから始まります。夫の多額の借金が発覚し、泣く泣く財布をメルカリに出すと、それを購入したのはFXの情報商材を売る水野文夫で――。1つの財布がさまざまな人間の手に渡っていくというお話ですが、「財布」をキーアイテムにしたのはなぜでしょうか。

 私、有吉佐和子さんの『青い壺』という小説が大好きで。壺が人々の間を転々とする物語なのですが、いつかこんなお話を書いてみたいなと思っていて。小説のテーマをお金に決めた時、財布をめぐるお話にしたら面白いかもと思いました。

 財布って単にお金をしまうものじゃなくって、少し前に「仕事ができる男は長財布を持つ」と言われたように、ステータスの象徴だったりするんですよね。「財布のひもが堅い」とか「財布」って言葉自体がお金を意味することもあって……。色々展開できそうだと思いました。

©GettyImages

――まさにその通りで、節約主婦のみづほに始まり、FXの情報商材を売る文夫、株で大損する裕一郎、奨学金返済に苦しむ麻衣子と彩……と、財布ひとつでこんなに色んな「お金の落とし穴」を描けるのかと驚きました。その誰もが身近にいそうな普通の人々なのも印象的です。

 貧困女性のルポを読んでいると、ホストや悪い男に貢がされたという話もあるけれど、意外と多いのが奨学金の返済に行き詰まって、というもの。インタビューで、30歳くらいの女性が「別にエリートと結婚してセレブになりたいわけじゃなくて、普通に結婚して子どもを産みたいと思ってた。でも奨学金で40歳まで毎月3万返済しなきゃいけない。そんな女、嫌ですよね。だから諦めてます」と語っていて……。欲張ったわけでもなく、まじめに奨学金を返そうとして幸せを諦めたり、我慢する人たちがいる。もしこの女性が私の隣に座っていたら、なんてアドバイスしてあげられるだろうと思って、この小説には私なりの答えを書きました。

一度も正社員にならなかった

――小説でアドバイス役を担うのが、マネー系ライターの善財夏実ですね。善財は自分の仕事の方向性に悩みを抱えるという設定でしたが、同じ文筆業としてご自身と重ねた部分はあったのでしょうか。

 私は書くものと自分ははっきり分かれているので夏実も私がモデルというわけではありません。だけど私、32歳〜38歳の頃、シナリオライターをしていたんですね。デビューが遅かったので、自分の年齢が上がってくるにつれ、周りのプロデューサーがどんどん年下になっていくんです。すると年上は使いにくいのか、仕事がちょっとずつ減っていって……だから夏実の焦燥感には身に覚えがあります。

 考えてみたら、自分は一度も正社員として働いたことがないんです。私の頃は就職氷河期で、10社くらい落ちたところで心が折れて、契約社員や派遣社員として働くようになって。だから、契約社員の麻衣子やアルバイトの彩の寄る辺のなさには思うところがありますね。私の知る限り、奨学金で悩んでいる人は男性より女性が多い。それは、やっぱりまだまだ女性のほうが非正規雇用の割合が高いからだと思います。

©GettyImages

――原田さんのこれまでの作品は『事故物件、いかがですか? 東京ロンダリング』や『彼女の家計簿』など、経済的に苦しい立場に追いやられた女性が知恵をつけて自立していくお話が多いように思います。今作も専業主婦であるみづほが、自分で稼ぎ出すまでを描いていますが、女性の「経済的自立」についてどうお考えですか。

 絶対にそれを書くと決めているわけではないですが、小説というのは話のなかで主人公が変わっていくという要素がいると思っていて、その中で、女性が職を得るとか、自立していくというのはポイントになるのではと思いました。同性なので描きやすいというのもありますが、女性のほうが柔軟で変化させやすいんです。男性のほうが自分の状況に固執してそこから飛び出しにくい気がしますね。そういう意味では、今回は文夫と裕一郎という二人の男性を書いたのはちょっとしたチャレンジでした。

――情報商材で借金を負う文夫と、株で借金を負う裕一郎、一方は犯罪に手を染め、一方は地道に働くことを選びます。この分け目はなんだと感じていますか。

 ラスト、どっちが落ちて、どっちが上がっても不思議ではないなと思いながら書いていました。二人とも性格悪いところがありますし、善人だから闇から脱せるわけでもない。編集者からも投資について書くなら、だめなところとか、失敗する厳しい一面も描いてほしいという注文があって、私もそれは書かなければと思って。

お金がなければ「小説」もなかった

――これまでお金がテーマになった作品を多く書かれてきましたが、原田さんにとって「お金」とはなんでしょう。

 小説と小説家を成り立たせてくれたもの、ですね。以前NHKのドキュメンタリーでお金の起源についてやっていたんです。人類が誕生し、自給自足の生活を送っていたところに、麦と米という、貯蔵出来て細かく量を分けて交換できるアイテムが誕生した。それでも、運ぶのが重たいとか、貯蔵するにしても半年とか1年だとかいう問題が出てきて、それに代わるものとしてコインが誕生した。すると、農業で米や麦を得るほかなかったのが、それ以外の仕事が成り立つようになり、分業が拡がっていった――。

 それを見ていて、しみじみ思ったのが、小説を書いて食べていこうなんてこと、お金がなかったら絶対できなかった。そもそも、小説を読もうという余裕すら生まれなかった、ということ。ドキュメンタリーを見たのは『三千円の使いかた』を書いた少し後だったのですが、それまでは、お金のことを小説に書くことにちょっと恥ずかしさがあったんですね。でも、お金の根本を考えると、恥ずべきものではないと思うようになりました。

――この作品に込めた思いとは。

 まずは楽しく読んでくださるのが一番なのですが、この小説を読んで「リボ払いはやめよう」とか一つだけでも覚えて帰ってくれれば……って、芸人さんの口上みたいになっちゃいましたが(笑)。

 先ほどお話しした奨学金に限らず、ただただ毎月返済に追われているひとが隣にいたら、多少経験を積んだ今の自分なら何か言えるかもしれない。おこがましいですけど、そんな気持ちを込めています。

――今気になっているお金のトピックスはありますか。

 Twitterの投資関係の人をフォローしていて思うのは、とにかくみんな会社が辛いんだなということ。早期退職してあとは投資で暮らしていく「FIRE」がトレンドで、いつかそれについて書いてみたいなと思っています。40歳とかで夫がずっと家にいて、毎日夏休みみたいに暮らされるのって、妻にとってはどうなんだろう? 今の男性は家事も育児も半分やるというけど、男性の「半分」って女性にとったら全然半分じゃない。そこらへんをちょっといじわるな視点で書いてみたいですね(笑)。