陽水から歌詞が送られてきたとき、ワープロで打たれた詞には、どう歌うか要所要所に手書きで具体的な指示が入っていたという。歌入れのときにも陽水はスタジオに現れ、ギター片手に「もっと抑揚をつけなさい」などと歌唱指導してくれた(※4)。おかげで最初は棒読み歌だったのが、一変して表情のある歌に生まれ変わった。

素人同然の実力で「何回もやらないとクリアできないことが多かった」

 奥田からもレコーディングで何度もダメ出しされたようだ。彼はのちに、当時の2人はまだ歌手としては素人同然で、《何回もやらないとクリアできないことが多くて、結果的に厳しくしてるっぽく映ったかもしれない》と振り返っている(※1)。ただ、奥田としては、PUFFYはもともと形のない実験的なものだったゆえ、まったく戦略なしに好き勝手やったという感じで、プロデュースしたという感覚はなかったという。

 1996年といえば、小室哲哉のプロデュース作品に代表される打ち込み系のダンスミュージックの全盛期である。そのなかで、スタッフ全員で合宿しながらアナログレコーディングにこだわり、さらにTシャツとジーンズというカジュアルなスタイルで登場したPUFFYは新鮮だった。

「アジアの純真」以降もミリオンセラーを連発

「アジアの純真」はリリースと前後して、彼女たちの出演する清涼飲料のCMで使われたこともあり、たちまちヒットする。発売後3ヵ月以上をすぎてもオリコンのシングルチャートのベスト10にとどまり、この年だけで110万枚を売り上げた。1996年10月7日に発売された2ndシングル「これが私の生きる道」は発売数週間で120万枚を突破し、デビューから2作続けてのミリオンセラーという史上初の快挙を達成する(その後、3rdの「サーキットの娘」、4thの「渚にまつわるエトセトラ」もミリオンを記録)。

 一躍、時代の寵児となったPUFFYは、同年暮れの日本レコード大賞では最優秀新人賞を受賞した。NHKの紅白歌合戦の出場も確実と思われたが、大晦日にはテレビ神奈川の生番組への出演が以前から決まっていたため辞退し、話題を呼ぶ。もっとも、12月初めに由美が自転車の転倒事故で負傷してしばらく休業したため、年末のテレビ出演は亜美1人でこなすことになった。2人での活動再開は、年明けに台湾、香港、シンガポールとまわったアジア・キャンペーンだった。