全盛期はレギュラー12本、移動はヘリコプター……。バブル経済の余韻があった1990年代前半に大阪から破竹の勢いで東京に進出し、全国区の人気を誇っていたのが、芸人の森脇健児(54)だ。

 冠番組『夢がMORIMORI』(フジテレビ系、1992〜95年)は、SMAPが“国民的アイドル”となるきっかけの一つとなり、ジャニーズのバラエティ進出の起点となった番組とも言われる。その森脇に、当時の華やかなバラエティ界の様子、若き日のSMAPとの思い出から、全レギュラー番組を失って大阪に戻る顛末までを聞いた。(全2回の1回目/ #2を読む )

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「どこかで『こんなはずはない』と思っていた」

――1990年代初頭からの7年間、東京に拠点を置いた森脇さんは大変な人気でした。レギュラー番組は12本、フジテレビの「月9」ドラマにも出演。海外で撮影された吉田栄作さんとのCM・男性化粧品「GATSBY」も話題になりました。当時はまだ、バブルの残り香があった時期でしたね。


29歳のころの森脇さん(所属事務所提供)

 

森脇 あの頃はスケジュールの都合で、本当にヘリコプターで移動することもあったんですよ。ドラマの打ち上げも豪華で、ディスコやカラオケ店を全館貸し切る時代でした。CM撮影で海外に行った時には、家にリムジンバスで迎えにきてくれた。乗り込むと車内にはシャンデリアがついていて、ブランデーまで用意してある(笑)。バンコクでもVIP専用のイミグレーションで、一般の人の列に並ばず入国できたのを覚えてますね。新幹線でも、そのままホームに出ると人が集まって危ないからと、新大阪駅の駅長さんに「そこで新幹線くるまで待っていて」と、貴賓室で待機させられてました。

――まさに華やかな芸能界を思わせるエピソードですね。森脇さんもご自身の人気を実感したんじゃないですか?

森脇 ただ忙し過ぎて、たとえば『夢MORI』が、世の中でどういう存在になっているのかわからなかったんです。収録現場ばっかりだから世間の方との接点がない。リアルタイムで「人気あるな」なんて感じたことないです。とにかく無我夢中。神輿の上に乗せられて、ワッショイワッショイという状態ですから。当時の自分のモットーは「我に返らない」。ブレーキのない車に乗って、アクセルを踏み続けるみたいな感じでした。どっかで「こんなはずはない」と思ってましたね。

芸人とジャニーズの共演は珍しかった

〈1992年4月にスタートした『夢がMORIMORI』のレギュラー陣は、森脇と森口博子に加えて、当時売り出し中だったSMAPの中居正広、木村拓哉、稲垣吾郎、森且行(のちに脱退)、草彅剛、香取慎吾。ジャニーズアイドルが本格的にバラエティ進出を始めた最初の番組とも言われている〉

――『夢がMORIMORI』が、その後のバラエティに与えた影響は大きい気がします。そもそも、芸人とジャニーズが共演するバラエティ番組は珍しかったですよね。

森脇 当時、僕みたいな松竹芸能所属の芸人がジャニーズさんと仕事するっていうのは、あまりなかったですから。ジャニー喜多川さんが避けていたのかもしれないですね。