『言語学バーリ・トゥード Round 1 AIは「絶対に押すなよ」を理解できるか』(川添愛 著)東京大学出版会

「絶対に押すなよ!」

 高く切り立った崖の上。友人があなたにこう言っているなら、その意味は明快だ。では、テレビのバラエティ番組で、熱湯風呂を前にしたダチョウ倶楽部・上島竜兵氏がこう叫んでいたとしたら、「押さない」、「押す」、さて、どっち?

『言語学バーリ・トゥード』は、気鋭の言語学者である川添愛さんが、日常の様々な現象を言語学の視点から考察した痛快なエッセイだ。

「上島さんの言葉の意味は『押すな』ですが、彼が本当に伝えたい意図は『押せ』です。つまり、意味と意図が正反対。そこに笑いが起きる。私たちは、普段何気なく話したり聞いたりしますが、蓄積された知識や常識を前提に、ほぼ無意識で文脈を理解し、言葉を使い分けているのです」

 書名の「バーリ・トゥード」は、ポルトガル語で「何でもあり」。取り上げる話題はお笑いから音楽、SNSまで多岐にわたる。たとえば、「Go Toトラベル」。英語としておかしいのに広く浸透してしまった造語だが、著者に言わせれば、「ニセ英語界では最弱」。斯界では「メークドラマ」「ミートグッバイ(肉離れ)」(by長嶋茂雄氏)が最高峰に君臨しているという。

 さらに、プロレスの言語学的解説は著者の真骨頂だ。冒頭から紹介されるのは、プロレスファンには有名な「こんばんは事件」。1981年、アントニオ猪木率いる新日本プロレスの興行に、他団体のラッシャー木村が敵として殴り込んだ。一触即発のムードのなか、「金網デスマッチの鬼」と呼ばれた強面レスラーは、マイクを持ってこう言い放った。

「こんばんは」

 ……観客がズッコケたのは言うまでもない。この事件の謎を著者は読み解く。

「相手を驚かして威嚇する場面で、相手を気遣い、敵意のないことを示す挨拶。“悪役”の誠実さが引き起こしたギャップが面白かったのだと思います。プロレスには、スキャンダラスな事件、プロレスラーの名言珍言が目白押しで、言語学的にはネタの宝庫。小さい頃から父と一緒に見て好きだったプロレスの考察ができて幸せでした。学術論文にはなりませんが(笑)」

 ユーモアとプロレス愛に溢れる本書では、「正しい日本語」を強制することもない。

「言語学を勉強すればするほど、これが絶対正しい言葉だと言い切れないことがわかってきます。世代や地域、人によっても言語感覚は違う。それを言葉の乱れとして終わらせてしまうのではなく、人々が言葉に対して抱く感覚を観察し、仮説を立て、検証と修正を繰り返していく。言語学者の思考法を紹介しました」

 本書の副題のように人工知能(AI)が人間のコミュニケーションを理解できるのか。

「AIの性能は上がっていて、機械翻訳や音声認識など得意な分野もあります。それでも、熱湯風呂と上島さんのような特定の文脈を学習させることはできても、日常生活の様々な場面での言葉の意図を理解させることは難しいですね。曖昧で複雑、時にダブルスタンダードも含めたりする人間の言語感覚は奥深くて興味がつきません。私たちの日常の言葉の不思議を楽しんでいただけたら」

 川添さんは、最近まで、松任谷由実の名曲『恋人がサンタクロース』を、『恋人はサンタクロース』と勘違いしていたという。いま、はたと気付いた方も多いはず。なぜ「は」ではないのか。実は、「は」と「が」の違いこそ言語学の難問の一つであるのだが……。目から鱗の謎解きを、本書でご堪能あれ。

かわぞえあい/1973年生まれ。作家、言語学者。専門は理論言語学、言語処理。著書に『自動人形の城』『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』『数の女王』『聖者のかけら』『ヒトの言葉 機械の言葉』『ふだん使いの言語学』など。

(「週刊文春」編集部/週刊文春 2021年10月14日号)