©下田昌克

 何十年も前に聞いた言葉が、勢いのついたブーメランのように倍速で戻ってくるときがある。  

 私の手もとに飛来したのは、たとえばこんな言葉だ。

「いただき物で一番うれしいのは“いい海苔”」

 ずいぶん若い頃、何気ない会話のなかで聞いたのだが、そのときは意味が飲み込めなかった。

 さらりと口にしたのは年長の女性だった。私はその人の年齢の半分にも満たない二十代半ばの若僧で、そのときハテナと首をひねったことを、なぜかものすごく覚えている。いただいてうれしいのは、ハムとかクッキーとかビールの詰め合わせとか、嵩張(かさば)る品ではないのか。実家に暮らしていた十代の頃、父宛てにいただく御歳暮は油、乳製品、タオル、嵩張ったり重かったりするものばかりだったから(じっさい、あの頃はそういう時代だった)。

 ところが人生の先輩は、一番うれしいのは海苔だときっぱりおっしゃる。しかも、一同フムフムとうなずいておられる。大人の会話に気圧されたが、いっぽう、私の頭のなかには疑義が渦巻いた。

 薄くて、軽くて、かさついて、お腹がいっぱいになるわけでもなく、あってもなくても困るわけでもない地味な海苔が一番とは、またどうして――。

 愚かであった。ブーメランを手にした今となっては、当時の自分を諭したくなるのだが、いや、それでよかったんだ、とも思う。

 海苔は、ゆっくり覚える味なのだろう。

 子供の頃は、二種類の海苔に攪乱されていた。ひとつは焼き海苔。大きな海苔を中表にしてコンロの火にかざして焙ったのを手渡してもらい、パリパリと乾いた音を立てて折り、それを半分、また半分に折って十六枚に等分した。家族四人、四枚ずつ。親を真似て、ちょんと醤油につけてごはんを上手にくるむと得意になったが、そもそも海苔を折るのが好きだったふしもある。

 もうひとつは、味付け海苔。細長い小袋入りが食卓に置かれるようになったのは、これも時代だった。小袋は画期的な湿気対策だし、味付けは最先端の食品技術に違いなく、食べると唇のまわりがぺなぺなして新しい味がした。

 でも、気がついたら味付け海苔が去り、ふたたび焼き海苔に戻っていた。味付け海苔は、料理に使いづらいということになったのではないか。

 両手を合わせてかしゃかしゃと作る揉み海苔、海苔の束にハサミを当てて切る刻み海苔、どちらも台所の手伝いで覚えた。遠足や運動会は俵に海苔を巻いたおむすびか海苔巻きだったし、高校生のとき、ねだって海苔弁をこしらえてもらうこともあった。海苔には質のよしあしがあると気づいたのもこの頃で、紫混じりのまだら模様は、海藻が饐(す)えた臭いがした。艶のないガサついた海苔は母の節約だったろうに、そんな大人の事情など知るよしもなかった。

 どうせなら海苔は、贅沢をして“いい海苔”を、と今は思う。ええい、と奮発するとき、黒い大きなお札に見えなくもないが、なに、千円二千円のことなのだから。

 海の滋味を掻き集めたようなふくよかな味に、幾星霜が詰まっている。かまぼこ、雲丹(うに)、油揚げ、おひたし、青菜、熱い飯、海苔のありがたさがいや増す。おばあちゃんがやっている古い居酒屋で、雪印チーズに黒い帯をわざわざ巻いた突き出しが出たときは、ぐっときてたまらない気持ちになった。

(平松 洋子)