「母さん、許して!」

 11月3日午前1時ごろ、貢が外出先から帰宅。好機至れりと、はまは貢と栄子を階下玄関脇の3畳間に座らせたうえ、貢に向かって寛の不行跡を語り、併せて長男としてとるべき態度についていろいろ訓戒を与えるように装って懇談。その間、機会を見て出刃包丁を台所から持ち出して右手に持ち、丹前の下に隠して貢の左後方に立ってすきをうかがった。

 さらに栄子をうながして、打ち合わせ通り、当時兀がやっていた、手ぬぐいで両手首を十字に縛り口で解く手遊びを貢にさせるよう持ち掛けさせた。貢が立て膝をして口で結び目に当てて解こうとしているすきに、はまが出刃包丁で力を込めて貢の左頸部を刺した。

 貢は「母さん、僕が悪いんだよ。許して」と謝り、出刃包丁から逃れようとして、3畳間に接した中廊下に出てあおむけに倒れた。「母さん許して」などと大声で叫ぶと、はまは凶行が外に知られるのを恐れ、慌てて貢に追いすがり、さらに出刃包丁で貢の体各所に切りつけ、最後にはまと栄子の二人で貢の首を突き刺した。

 結局、頸部、背部、左右上肢などに刺し傷17カ所、切り傷5カ所などを負わせ、その場で右前膊刺創(橈骨動脈全断)による失血並びに頸部刺創(左頸静脈左側大半の切断)による空気塞栓により死に至らしめた。

 瀕死の貢が「母さん、分かったよ」「栄子、僕は死ぬから末期の水を飲ませてくれ」と言ったと書いた新聞もある。こうやって犯行の模様を見ていくと、いかに放蕩無頼とはいえ、貢の最期が哀れに思えてくる。

 昭和事件史の「谷口富士郎の犯罪」もそうだったが、同じ家で一緒に暮らす肉親が自分の殺害を狙って機会をうかがっている不気味さ、無残さは想像を絶する。それは一種の「魔界」なのかも。未遂も5回重なれば、何かを感じてもおかしくない。貢がなじみの娼妓に予感めいたことを漏らしたのも当然のような気がする。

「とうとう貢を殺しました」「よくやってくれた」

 その後も新聞は連日大きく報道した。1935年12月20日付東朝夕刊の「親の愛微塵もなし 『よくやってくれた』 妻を賞(ほ)めた夫」の見出しの記事は、犯行後、はまからの電報を受けとった寛が11月7日、本郷の家に着いた時のことをこう書いている。「(はまは)夫の膝に泣き伏しながら『お父さん、とうとう貢を殺しましたよ』と告げると、『よくやってくれた。後が大事だからしっかりしておくれ』と、寛も涙声になってはまを励ましたものである」。

「肉親の血を吸ふ(う) 愛の世界の叛逆者 たゞ(だ)貪慾(欲)一筋道」の見出しは同じ日付の東日。はまと栄子が犯行を認めたのに、「父寛はいまだに一言も自白せず『貢の四十九日も近づき、親類知人を招いているから、なるべく早く帰してください』としらを切り、当局の嘲笑と反感を買っている」とある。