だが、これが書かれたのは、山地が精神科医の太田さんに向かって、母親殺害の理由と母親の死を「同じぐらいの価値」と言い放ったのと同時期なのだ。つまり、太田さんが山地について「反省しないのではなく、できない」と感じていた頃である。過去を総括できずに未来だけを語るその姿に、「虚飾」なる言葉が思い浮かぶ。

殺されても仕方のない人

 いずれにせよ、彼のなかで母親殺害という重大事が、ぽっかりと抜け落ちていることは明らかだ。じつは、母親を殺害してしまったことに、一番の戦慄(せんりつ)を抱いたのは山地自身だったのではないか。その事実と直面することを避けるために、殊更(ことさら)に母親を悪く言い、殺されても仕方のない人だと思い込もうとしているのではないか……。そうした疑問が湧きあがってくる。

 内山さんが差し入れた『愛って、なに?』という本について、山地は次のような感想文を書いていた。

〈本文の中に「愛というものに形や臭いもない」と言っている場面がありますが、私はこの言葉に同意できます。私にとっての愛というものは「やすらぎ」であるからです。(中略)3つのストーリーに共通してでてくる死というものの後に救いというものが現れます。救われる救われないは別として、何かを失うことによってその空腹を何か別のもので満たそうとする。それぞれの物語には家庭の中のやすらぎが無い中で救いを神に求める。どんな形であれ、無いものを満たそうとする人の心というものは、悲しいものがあります〉

 空虚な言葉の羅列の先に、どこか彼の心情が垣間見える気がして、仕方がないのだ。

20歳、少年院を出されて

〈さて、今年は1級上への進級と10月頃には出院が予定されております。やっておきたい事があると、時間はあっという間に過ぎてしまいます。

 やりたい事の1つが、自分流の学校勉強です。学校の教科書での勉強は苦手意識があり、身に付けづらいので、自己流でやってみようと思います。