「駅のエスカレーターは片側が空いていても昇り降り禁止」ってのが頭では分かっていても、朝のラッシュ時は殺気だったサラリーマンやOLさんたちがガツガツと昇り降りしているので、つい流れで不必要に昇り降りしてしまう。自分だけ呼びかけを守りエスカレーターを昇り降りしないと舌打ちされ、声を掛けられ、邪魔だなこいつという目線を浴びせられる。

 もはや外出時の常識となったマスク着用も、本来は感染症防止の目的であるのを忘れ、マスクをせずにうっかり咳払いしようものなら全員の視線は集まります。いや、相当感染者数減ってるしもうマスクしなくても大丈夫じゃないですか、と心の中で抗弁しても始まらない。

当然となってしまったマスクのある日常

 他方、もうマスクいいじゃないかと思っていても、この前用事があって東京地裁に行ったらガードマンが集まってて、何だろうと思うとノーマスク30人ぐらいの集団がエレベーターホールで何か騒いでいるんです。聞くに、マスク着用反対で裁判になった人の支援団体が、パフォーマンスとしてノーマスクアピールしているそうなんです。

 おい、マスクぐらいしろよ。ご都合主義の私は、ついそう思ってしまいます。理性では、もう公共の場や満員電車、オフィス、学校などでも、感染のリスクはいまはとても低いはずだ。そう考えていても、いざ目の前にノーマスクの皆さんがうろうろしていると「何だこいつ」と思うのは、やはりマスクのある日常が白い鼻クソと共に当然となってしまったからなのでしょう。2年前は、マスクしてる人は病気なんじゃないかとか、花粉症なのかなとか、むしろ自分とは異なる人たちの目印のはずだったのに。

 子どもの習い事のお迎えで若いママさんがウレタンマスクを着けてくると、心の中のウレタンマスク警察が騒ぎます。それ、ほとんどウイルス防がないぞ。私の替えのマスクをやるから子どもともども身を守れよ。みんな伝染(うつ)ったら大変だぞ。

コロナへの恐怖と感染症対策という戦いのトラウマ

 町内会の雑務をしていると、両親がコロナに感染してしまったのでお家で一人留守番をしている女の子を訪問することなども多いので、かつては本当に大変でした。自宅療養中に市役所の職員さんと手分けして飲み物や食べ物を家庭にお送りするときも、まるで戦下の配給みたいでした。

 そういうコロナへの恐怖と、感染症対策という戦いのトラウマが、もうその危機はしばらく去りそうだとしても、外出時にマスクを外せない私たちの行動に繋がっているのでしょう。

 もはや、こうなったら私たちのコロナとの戦いを先導してくださった尾身茂さんに「分科会は、永久に不滅です」とスピーチしてもらってマスクを外すセレモニーでもしないと駄目なんじゃないでしょうかね。

 オチに長嶋茂雄の引退ネタをもってきて、すべての若い読者を再び置き去りにしながら。

(山本 一郎)